すきな人には二度と逢わない

 教室に入ると、すきなひとが3人、なんでもないひとが19人、あとの8人はきらいです。
 とくにまんなかの方でつんとすましているあの女の子と、いちばん後ろの、いまにもしゃべり出しそうに身をのりだして目をかっと開いた男の子、あれは大きらい。
 みんなおなじ人間、顔があって目がふたつ、鼻がひとつに口ひとつ、髪の毛でふたをされて、お弁当箱のようにおさまっているのに、それでも、どうしてこう、すきやきらいがあるのだろう。でも、お弁当箱にだって理屈なく、色がいいとかわるいとか、形が丸くて愛らしいとか、すきもきらいもあるんだから、ひとにないのはおかしな話だ。
「お、お前は、今朝の!」
 わたしが名前を言う前に、その、いちばん後ろの席の男の子が立ち上がって大声を上げた。どうやらすごくおどろいて、顔が上気している。
「お前が転校生!?」
 わたしにはわけがわからない。まばたきだけをなんども打った。
「朝に何かあったの?」と先生が男の子に訊いた。
「角でぶつかったんです! その時、そいつ、パンくわえてて……」
「初めて会って、そいつなんて言うもんじゃありません」
 高い声でみんなが笑った。わたしも思わずはにかんでみせる。
「そうだよな!?」と彼はわたしに言った。
 わたしは黙った。先生は、あわれなほど不安そうなようすになって、わたしと男の子を交互にみくらべた。そしてとうとうみんなの方をみることにして、言った。
「神林さんは、すぐに記憶がなくなってしまう病気、病気というか症状なのです。朝のことも、覚えていないんです」
 どよめいたり、顔を見合わせたり、やばくない? と後ろをむいてささやいてみたり、クラスはにわかにさわがしくなった。
 わたしはわたしの好きな人たちだけが息をひそめているのを見ながら、つぶされそうな胸をまもろうとして、大きく息をすいこんでみた。
「やばくなんかありません。みんな、それをよくわかって、仲良くしてあげてください」
 やばくなんかありません。仲良くしてあげてください。きっとわたしだけが、その言葉を心のうちがわでくりかえした。どうして、やばくありませんなんて、苦い苦い芽をつみとって、それをつんだとみんなに見せるのだろう。どうして、わたしが仲良くしてもらわなければいけないのだろう。
 それに、わたしは、ほんとうは、すきな人のことはおぼえていられるのだ。
 きらいな人のことや、どうでもいい人のことは、何があろうとおぼえていられないけど、すきな人なら、名前も、すきな食べものも、誕生日も、兄弟が何人いて、何才なのかだって、ちゃんとおぼえていられる。
 でも、お母さんは、それでは多くの人にうとまれるのだから、生きていくにはかくさなければいけないと言う。わたしが、心と体にまかせて、よろこんですることは、いずれ不幸につながるのだそうだ。因果応報。お母さんはそう言った。だから、わたしはおぼえられない。すきでもきらいでも、そんなことはわからない。なんにも、ひとつも、おぼえられない。


 休み時間になって、人がずらりとわたしの机をかこみはじめた。初めて見るように思われるその人たちは、どれもみんな、きらいな人だと思った。彼らの、蜘蛛がねばねばした横糸をはるような、不らちな仲のよさを、わたしは感じとった。
「ね、マジで朝のこと、覚えてないの?」
 その中でもとくべついやに思える男の子から、なれなれしい、さわやかな縦糸がさしだされて、わたしの胸はさわいだ。いったい、朝になにがあったというんだろう。きらいな人たちの吐く息で、空気がせまい。重たく重たくのしかかる。
「なに、杉田、もしかしてこの子のこと好きなの?」
 女の子がちゃかすような、おこるような調子で言って、わたしはこの女の子、大きらいだと思った。顔もかわいいけど、目もぱっちりしているけれども、腕もほっそりして、髪もつやつやだけれど、声もきれいだけど、全部あわせたら、すごくきらいな女の子だと思った。
「杉田ってね、足めっちゃ速いんだよ」
「そうなの。速く走れるってすごいよね。わたしはすっごくおそいから、あこがれる」知るもんか。きらいな人の足が速いのなんて知るもんか。
「ねえ、この前のタイム、なんだっけ?」知るもんか。
「7秒2」知るもんか。
 きらいな人たちのすき間から、外を見ると、わたしのすきだと思った人たちの何人か、教室のすみのほうで、きっといつもとおなじように、他愛ないおしゃべりをしている。のんきにひとりですごしている。わたしは、なんとしても、あの人たちとお友だちになりたいものだと考えた。でも、それもできやしない。お母さんと約束したんだから。わたしは、あのすばらしい人たちのことも、誰ひとり覚えていられないのだから。
「ねえ、マジで朝のことさ、覚えてないの!?」
 わたしはきらいな人に何度も会う。何度も何度も出会いを重ね、そのたびに、何度も何度も、くりかえし、イヤだ、きらいだと思うのだ。それなのに、すきな人には二度と逢わない。