ワインディング・ノート18(宮沢賢治・『雨ニモ負ケズ』・完璧)

 さて、水を飲んだら少し落ち着きました。記憶が確かならば、福満しげゆきとか手塚治虫の話をしていたはずです。
 マンガの土壌の話から、宮沢賢治に流れたところですが、ご安心を。きっと手塚治虫まで戻るような気がしています。今、進むべき方向がジョバンニたちのようにはっきりしていて、車窓から「いま行って来た方」を見ているような感じです。
 明日はどうか知りませんが、たった今においては、ジョバンニとカムパネルラを気持ちよく疾走させた宮沢賢治に全幅の信頼を置いている僕には、導き出されかけているものがあり、それは先ほども書いた通り、「地層や土壌や過去を振り返るものは、『ほんたうの幸ひ』にたどり着かない」ということです。あるいは、「ほんたうの幸ひ」の実現を放棄しているということです。

 だって、過去は今この世界ではないのですから、そんなものに、まさに「現を抜かしている」うちはダメでしょう。「雨ニモ負ケズ」を思い出せば、あそこで語られているのは、「今」の生活のことであり、人が「今」どうするかであり、そして何より「こうあれば」という静かな叫びであったことがわかります。

雨ニモマケズ
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 
 これを読むと、僕には、永六輔は「そんなものになれるわけがない」と思って昔は嫌いだったとか、井上陽水が電話で沢木耕太郎に朗読してもらって「ありがとう」って言って切った後日に「ワカンナイ」が発表された、とかいう話が思い出されるんですが、そんなことはどうでもよい。
 いや、どうでもよいわけでもなく、この、「雨ニモ負ケズ」が、簡単に言えば「そんなの無理だよ、何言ってんの、わかんない」という言葉であることは重要です。

 執拗にくり返しますと、「ほんたうの幸ひ」だの「完璧な存在」だのは、世界で実現するはずがないのです。
 なのに、そんな「中学生の考えるやうな」ことを、なんだか知らないが死ぬまで深く考えずにいられない人たちがいる、ということについて、果たしてこれはなんだろうかと僕は考えているのです。デカルト然り、太宰治然り、サリンジャー然り、宮沢賢治然り。

 その完璧とか本当とかは、同じものを指すような気がしますし、ちがうような気もします。しかし、彼らの態度が、異なるのに、どこか似通ったものに思えることの不思議さが、どうにも本気で気にかかり、これについて言葉を尽くさなければいけないという気がします。
 訳知り顔で期待に鼻をふくらませて「創作活動」とやらをした気になっている他のどんな奴らのことも差し置いて、なんとしても彼らのことを考えなければいけないという気になるのです。
 そもそも、こんな出口のないことを考えて考えて考え続ける奴らが、世間と折り合いをつけられるはずがないではありませんか。
 
「完璧を求めちゃうとつらいよ」とか「完璧を求めたらダメ」という言葉は日常においてもよく使われますが、そんなものは本当の完璧ではありません。体操の十点満点は、かつては「完璧を求めちゃうとつらい」ものでしたが、今では何のその、テスト勉強だって、会社のプレゼンだって、完璧はありえるでしょう。
 そういう言葉は、こういう不可能なものにを追求している人たちに向けてかけられるべきなのですが、彼らはそんな言葉には耳を傾けません。傾けなかったから、彼らの発する言葉だけが今もなお、異物として残っています。そして人は、異物にあたらなければ何かを考えることすらできないのです。

 

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