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ワインディング・ノート14(手塚治虫・宮沢賢治・『銀河鉄道の夜』)

 マンガをスキャンできる環境にないため、マンガではなく手塚治虫の書いた文章から察していきましょう。彼は随所で作品の影響を嬉々として語っています。例えば、以下は、「忘れられない本」というエッセイです。

 ぼくの大河もの作品のストーリー・テリング、スケールをやたらひろげるスペクタクル志向の原点は、この『トンネル』である。
 戦時下の当時、欧米文学書がなかなか手に入りにくかったなかで、父の書棚にある『世界文学全集』は、またとない貴重品であったが、そのなかでも、『罪と罰』や『レ・ミゼラブル』などと並んで『トンネル』はぼくの心をもっともゆさぶった小説なのだった。
講談社手塚治虫漫画全集別巻『手塚治虫エッセイ集7』)


 手塚は戦後間もなく『地底国の怪人』を書いていますが、もともとはそのまま『トンネル』というタイトルにしたかったのを編集部に反対されたそうです。
 ドイツはベルンハルト・ケラーマン作『トンネル』は1913年の作品で、ごく簡単に言えば、フランスからアメリカまで大西洋トンネルを掘り続けるという話です。資本主義批判ともとられてナチスには禁書扱い、手塚のエッセイを読んだ筒井康隆も「手塚が薦めるならおもしろいだろうと思って読んだら、これは確かに面白かった」と言っていて、読みたい心をくすぐられますが、新潮社の『世界文学全集 第二期 12巻 』(1930)をさがすしかありません。amazonにもないはずです。僕も読んだことありません。
 エッセイはこう続いていきます。

 まず荒唐無稽で子どもじみたこのプロットを、ケラーマンは綿密な構成とたたみかけるような話術で、とにかく読ませてしまうのである。
 主人公がよき時代のアメリカを代表するような熱血漢で、それに大資本家が加担する。恋人や恋ガタキが現れるなどの構成は、戦前のハリウッド映画の骨組みそのままである。
 しかし、その甘さをおぎなってあまりあるのは、狂気のように突貫していくトンネル工事と、それに続く落盤と浸水の恐怖に充ちた描写である。そこでは主人公たちは影をひそめて、群衆が主導権を握り、パニックと自然の脅威のすさまじさが念を入れて描かれる。

 

 ぼくがいかにこの通俗大衆小説から刺激を受けたかは、ぼくのごく初期の作品である『地底国の怪人』に地底列車を登場させ、『トンネル』の主人公たちの名前を、その後の作品でしきりに流用したことで察していただけよう」


 勘違いしてもらわないでほしいのですが、ここで言いたいのは、別に、影響をあたえられたのを隠さないということではないのです。いや、そういうことではあるのですが、隠さないということは自覚するということであり、自覚するというのは言葉にできるということなので、それをしないということは倫理的におかしいばかりでなく、自分で書いたもののうち、どれほどのものが外から来たものであり、どれほどのものが内から来たものかわかっていないということになるのです。だから、「好きだったな」ではなく詳細に語っているということは「証言」として非常に重要で貴重なわけです。

 で、こんなことを言うと、世間には「いやわかってますよ。オレも、ぜんぶ自分で書いたなんて思ってないです。いろんなもの読んで、影響受けて、オレが考えて、書いて、この作品になったんです。オレの作品のほとんどは、外から来たようなもんです。手塚先生にも感謝してます。パクツイはカスのやることですな」と言う輩が大勢いることでしょう。
 でも、それがちがうんです。そんなものは「全て」外から来たに決まってるだろうがと僕は言いたいのです。
 手塚治虫はシンプルにこう言います。「インプットがないのに、アウトプットは出来ません」全て外から来たのだと言い切れる者だけが、全世界を異郷にして自覚するのであり、その「土壌」を吟味するのであります。

 その土壌とは、こういうことです。というわけで宮沢賢治銀河鉄道の夜』が唐突に出てきます。これが、引き写しノートを執拗につけている者のやり方です。自分が考えついたと思ったことが、何年も前に書いたノートに書いてあるという呪いです。
 孤独で、教室で答えがわかっていても言えないようなジョバンニが友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする中、北十字の白鳥の停車場で、プリシオン海岸に立ち寄ります。
 そこは化石発掘場になっていて、この語り手である大学士が監督をしています。ジョバンニたちは「標本にするんですか」と質問をします。

「いや、証明するにいるんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらいにできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水か、がらんとした空かに見えやしないかということなのだ。わかったかい」


 大学士は当然、化石を大事にしたいのですが、助手たちは乱暴な手つきで発掘を進めます。今の引用より前の場面ですが、戻ってみます。

 だんだん近付いて見ると、一人のせいの高い、ひどい近眼鏡をかけ、長靴をはいた学者らしい人が、手帳に何かせわしそうに書きつけながら、鶴嘴をふりあげたり、スコップをつかったりしている、三人の助手らしい人たちに夢中でいろいろ指図をしていました。
「そこのその突起を壊さないように。スコップを使いたまえ、スコップを。おっと、も少し遠くから掘って。いけない、いけない。なぜそんな乱暴をするんだ。」
 見ると、その白い柔らかな岩の中から、大きな大きな青じろい獣の骨が、横に倒れて潰れたという風になって、半分以上掘り出されていました。そして気をつけて見ると、そこらには、蹄の二つある足跡のついた岩が、四角に十ばかり、きれいに切り取られて番号がつけられてありました。
「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」


 助手たちにはそれが「風か水か、がらんとした空か」に見えているのですが、大学士にはそんな助手たちが取る発掘態度がひどく気になるのです。大学士にとって、そこは「厚い立派な地層」なのですから、乱暴はしないでほしいのです。
 思うに、土壌(ここでは地層という言葉を使っています)を認識するとはこういったことなのでしょう。それにまつわる認識のちがいによって、先人たちの残したものをスコップや鑿で丁寧に掘り出すのか、つるはしで乱暴に扱うかが決まってしまいます。
 だからと言って、「スコップ派」の人間は「つるはし派」を糾弾するわけにはいきません。「スコップ派」は力なく、大学士のように「も少し遠くから掘って。いけない、いけない」とかなんとか相当に情けない声をかけるばかりなのですし、それでもつるはしは「いけない、いけない」の声も待たずに、地層へガチンガチンと襲いかかるでしょう。

 

別巻15 手塚治虫エッセイ集(7) (手塚治虫漫画全集)

別巻15 手塚治虫エッセイ集(7) (手塚治虫漫画全集)

 
銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)