ワインディング・ノート11(サリンジャー・アップダイク・カフカ)

 サリンジャー自身もまた、理想のような完全な孤独に暮らしたのではなかった。以下の例でも明らかになるので書かないが、とにかく、そういった作家と読者、人間同士の異様な非対称の関係は、多くのようなエピソードを現実にもたらすことになった。サリンジャーの本は、宗教書をのぞいてまちがいなく最も多くの読者に、何らかの行動を強いらせてきた本だと言える。

 1972年、隠遁して久しいが完全な孤独を実現したわけでもない人間サリンジャーは、妻とも離婚してから5年後、ジョイス・メイナードという若い女性が「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に書いた『18歳の自叙伝』を読んだ。 感銘を受けたかなんだか、とにかく興味を惹かれたサリンジャーは彼女に手紙を送る。ほどなく二人の文通が始まり、彼らは交際に至った。ところが、彼女の膣痙攣という持病のせいで二人が肉体を交わすことはなく、あれこれと対策が講じられたが、結局二人は別れることとなった。そして……。

 1998年、メイナードは回想記『ライ麦畑の迷路を抜けて(At Home in the wall)』を出版して、26年まえのサリンジャーとの関係を語った。彼女の書き方は彼を断罪するものだった。サリンジャーを、もっとも感じやすい年頃の純真な乙女につけこんだ、冷酷で卑劣な男として描いていた。本の評価はさまざまで、すぐに本を書いた動機が疑問視されたが、読者は内容に魅せられ熱中した。1999年6月23日、メイナードは1972年にサリンジャーと交わした手紙をオークションに出した。14通の手紙がサザビーで競売にかけられ、およそ20万ドルで落札された。このオークションには驚くべき結末が待っていた。買い取ったソフトウェアの企業家ピーター・ノートンが手紙を買ったのはサリンジャーのプライヴァシーを護るためだと言明したのだ。彼はサリンジャーに返却するか、もし作家が望むなら破棄しようと申し出た。手紙はそれいらいノートンが保管している。その内容は明かされていない。
(ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー 生涯91年の真実』)


 ノートンとは、セキュリティ対策ソフトのあのノートンである。メイナードは子供の学費稼ぎのためにオークションに出したのだが、自社宣伝も兼ねていると思うが、ノートンサリンジャーのプライバシーを守るために金を出した(ノートンは現在も現代美術の蒐集家として知られる)。

 他の有名な読者たちの様子も見てみよう。
 マーク・チャップマンジョン・レノンを撃ったその場で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を開いて読み始めたという。早すぎる死を迎えたジョンの追悼集会に参加し、ジョディ・フォスターを振り向かせるためにレーガンを銃撃したジョン・ヒンクリーの愛読書もまた『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だった。
 あまりの語りに影響された者たちの多くは、あこがれた作家とちがい、禅的なものとは深い関係を取り結ぼうとはしなかった。彼の本は導きの書というより、その場所に留まらせる力の方をずっと強く持っていたのだろう。ちょうど、サリンジャー自身が、肉体を人間から遠ざけようとしながらも、その心を人心というものから遠ざけられなかったように。
 サリンジャーの話が長くなりすぎているようだ。ここは一つ、サリンジャーも敬愛したカフカを引用して立て直したいと思う。カフカはいつも、自分にとっての駆け込み寺となってくれる。

 ぼくは克己を目指そうとは思わない。克己とは、ほとんど無限に発散してひろがるぼくの精神的存在の任意の箇所で、自在に働くということであろう。しかし、そんな輪を自分のまわりに設定するぐらいなら、むしろぼくはこの途方もない複合体を、ただなにもせずに呆然と眺めていよう。そして、この壮絶な眺めが逆に与えてくれる勇気づけだけを胸にしまって、引き返してこようと思う。
(「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」『カフカ全集3』)


 克己とは「自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと」である。
 カフカは官吏の端くれとして人々の中に隠れ住むように昼間働き、夜中に文学に没頭した。
 彼と比べると、禅に執心しながらなおも世間を許せず、克己に奮闘しているようにしか見えないサリンジャーの嘴は黄色みがかって見えてくるような気もする。しかし、サリンジャーは、作中で克己した姿をおぼろげに浮かび上がらせ、読者にまざまざと見せつける。しかし、それは「完璧」ではないだろう。自分は以前にこう書いた。

 完璧ということはありえない。だから、ありえないがゆえに完璧なのだ。そして、ありえない完璧さは、それがありえた時の様態を示すことができない。示す必要もあるまい。


 例えばゾーイーのある種「完璧」にも見える才にまみれた姿は、多くの批評の矢面に立たされた。アップダイクは言った。「彼らをあまりにも身内意識で愛しすぎている。彼らの作り話が彼には隠遁所になっている。彼らを愛する彼のやり方は芸術的中庸主義の損失につながる。『ゾーイー』はただ長すぎる。タバコやチクショーが登場するし、やたらにうるさくしゃべりすぎる」
 糞喰らえアップダイクと自分は言いたい。
 ホールデンを、ゾーイーを、グラース家の一族を、興の乗りすぎた「完璧な者」として見る読者がいるのは事実である。
「ありえた時の様態を示すことができない」ものを読者は見てしまう。なぜなら、バディが言うように、成熟した読者ばかりではないからだ。彼らは自分が見たいように見るのであり、作家はそれを制御できない。
 サリンジャー自身は、「全世界を異郷と思う者=完璧な者」が、ゾーイーやホールデンやバディのような姿をとらないことを知っている。
 だから、それはシーモアという一人の青年に託されている。そして、サリンジャーは彼の「完璧さ」を謎のままで居残したようにしか書かない。家族みんなに語られながら、彼は姿を現さぬ。デカルトの道徳のように、暫定的な決定しかできず、永遠に接近しながらたどり着けない、しかし目指すべき存在としてシーモアはあるのだ。「ありえた時の様態を示すことができないの」である。
 しかし、他の作家に見られない、あまりにあまりな語りによって、サリンジャーはそこに最も接近する。そして、読者に錯視を起こさせる。実は、バディも、ゾーイーも、さらにはホールデンも、テディも、それに接近するために莫大な能力を与えられているのであり、シーモアは、彼らの「完璧でなさ」を逆説的に裏書きするのである。「完璧な者」に比べたら、他の人間はみな中庸にとどまる。だとしたら、「芸術的中庸主義」なんてものが損失されるはずもないではないか。
 こうした目論見に心血を注ぐ中で、実在の読者や批評家が邪魔になったサリンジャーの態度は、逆に自分を神聖化させることになった。それが彼の悲劇だったのではないか。
 個人的な意見を申し上げれば、「克己を目指そう」とした作家はたいへん貴重である。その貴重さが、彼の死後もなお続いているのは確かだ。
 サリンジャーにぶつけられた批評に関して言うなら、ニーチェのこの言葉がふさわしい。

 なぜ反論を唱えるか。――ひとはよく或る意見に反論を唱えることがある。ところが本当は、その意見の述べられた調子だけが同感できないだけなのである。
(『人間的な、あまりに人間的な』)


 もちろん、この言葉はブーメランで自分にも返ってきて、その口をそぎ落とそうとする。アップダイクが「ゾーイー」の調子だけを気に入らないように、自分もま
たアップダイクの調子に同感ができないだけなのである。

 

 

サリンジャー ――生涯91年の真実

サリンジャー ――生涯91年の真実