ワインディング・ノート10(サリンジャー・「ゾーイー」・太っちょのオバサマ)

 「太っちょのオバサマ」をご存知だろうか。ご存知であれば、ここまでちょくちょく思い出し、いつ言及するものか、ずっとしないんじゃないか、しないならコイツは救いようもない無能だと嘆いていたはずだと思う。
 「太っちょのオバサマ」とは「シーモア―序章―」の前作にあたる『フラニーとゾーイー』の「ゾーイー」に出てくる概念である。あらすじを紹介しよう。

 シーモアの年の離れた妹であるフラニーは、世の中インチキばかりで、まともなものは無く、それは自分の恋人も然り、世の中の真価を分かっているのは自分やシーモアだけだとでも言いたげに、思い出という名の亡霊だらけの実家のソファで、デブ猫ブルームバーグを抱きながら、シーモアの蔵書であり遺品である『巡礼への道』に書かれた真の祈りの実践をしようと、躍起になっている。
 兄である俳優ゾーイーは、母に乞われて説得に向かい、お前こそがインチキの宗教ごっこをやっていると言う。神経過敏に陥っているフラニーは半狂乱で泣きじゃくるが、ゾーイーは容赦せずに妹を追い詰め、口を極めてしゃべりまくり、犬と見知らぬ少女の戯れを窓から眺めては「エゴのせいで日常生活にあふれている美が見えにくくなっている」ことを嘆く。そしてはたと、憔悴しきったフラニーに気づくと、具合悪そうにその場を去る。
 その後、ゾーイーは別室に移動する。そして、シーモアの死後もそのままにされたその部屋から、兄バディを装ってフラニーに電話をかけ、妹に希望を与えようと努力する。
 バディでなくゾーイーであることはほどなくバレるが、ゾーイーは小さい頃に彼ら兄弟が出ていたラジオ番組「これは神童」に自身が出演していた時のエピソードを、疲弊したフラニーに電話越しに伝えるのだ。

「とにかく、ある晩、放送の前に、ぼくは文句を言いだしたことがあるんだ。これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いて行けと言ったんだよ。ぼくは怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな最低だ、アナウンサーも低脳だし、スポンサーも低脳だ、だからそんなののために靴を磨くことことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアはとにかく磨いて行けって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いて行けって言うんだよ。彼が何を言っているんだかぼくには分からなかった。けど、いかにもシーモア風の表情を浮べてたもんだからね、ぼくも言われた通りにしたんだよ。彼は『太っちょのオバサマ』が誰だかぼくに言わなかったけど、それからあと放送に出るときには、いつもぼくは『太っちょのオバサマ』のために靴を磨くことにしたんだ ── きみといっしょに出演したときもずっとね。憶えてるかな、きみ。磨き忘れたのは、せいぜい二回ぐらいだったと思うな。『太っちょのオバサマ』の姿が、実にくっきりと、ぼくの頭に出来上がってしまったんだ。彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から晩まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしているんだ。暑さはものすごいだろうし、彼女はたぶん癌にかかっていて、そして ── よく分んないな。とにかく、シーモアが、出演するぼくに靴を磨かせたわけが、はっきりしたような気がしたのさ。よく納得がいったんだ」
 フラニーは立っていた。いつの間にか顔から両手を放して、受話器を両手で支えている。「シーモアはわたしにも言ったわ」と、彼女は電話に向って言った。「いつだったか、『太っちょのオバサマ』のために面白くやるんだって、そう言ったことがあるわ」彼女は受話器から片手をとると、頭のてっぺんにほんのちょっとだけあてたが、すぐまたもとに返して両手で受話器を支えた。「わたしはまだ彼女がヴェランダにいるとこを想像したことがないけど、でも、とっても ── ほら ── とっても太い足をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ」
「そうだ、そうだ。よし、きみに聞いてもらいたいことがあるからね。……きみ、聴いてる?」
 フラニーは、ひどく緊張した面持で、うなずいた。
「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう ── きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分らんのかね? この秘密がまだきみには分らんのか? それから ── よく聴いてくれよ ── この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」
野崎孝訳『フラニーとゾーイー』より)

 
 この場面はしばしば宗教論として語られる。しかし、自分はそうは思わない。
 むしろ、サリンジャーが宗教でもなんでもいいが、あることについて深く考え行動に移した時、それらを「書くこと」に関連づけなかったことがあるのだろうか。「作家」でない者として考えたことがあるだろうか。
 「太っちょのオバサマ」は、一般人としての具体的な姿を持ち、悩みながら居るキリストであり、祈りの対象である。
 このような概念を表すとき、サリンジャーが何を最もよく、鮮明に想起するかといえば、それはこれまで見てきた通り、「読者」の姿ではないか。
 
 しかし、これが宗教と無関係ではなく、むしろそのようにとられがちなのは、「人間嫌いの隠遁者」「無垢の探求者」というようなサリンジャー神話そのものが、宗教的な意味合いを持って巷に流布されているからである。
 サリンジャーは実在のない「自分の中の読者」=「太っちょのオバサマ」=「キリストそのもの」に向かって書いた。しかし、実在する読者たちはそれになろうとする。もちろん、そんなものにはなれるはずがないのだ。
 そして、その輝かしい読者像は、自分もそれに「なりたいな、ならなくちゃ、絶対なってやる」という勘違いを、多くの実在の読者に与えることになった。

 

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

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