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ワインディング・ノート8(サリンジャー・「シーモア―序章―」・読者)

 さて、ここで作家と読者というものについて新しく考えを巡らせることもできそうだ。各自適宜、「マンガ家」とか広く「作者」とか自分の都合の良さそうな言葉に変換してもらっても構わない。
 作家と読者の問題は、以前あげた村上春樹が言うこともそうだが、各方面で盛んに語られてきた。
 この不可解な関係は何なのか、実に、一章のテーマを担うにふさわしい話題である。なお、自分が興味を持っているのは「作家の想定する読者」ただ1つであることを申し添えておく。もちろん、先生からもらったメールの文面も頭の大きな部分を占めている。

 自分が「読者」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはサリンジャーの名、中でも「シーモア 序章」という小説である。少し前にも引用している。
 文庫で150ページほどのこの作品は、作家であるバディ・グラースが、天才的にミステリアスな自殺者の兄について、身体的・関係的・文学的な考察をふんだんに交えながら饒舌に語りのめすという形式をとっている。
 その中で、バディは「読者」についてたびたび言及する。最後には誰とも連絡を絶ってコーニッシュという田舎に高い壁までつくって隠遁生活を送り、車のシートに結跏趺坐して書き続けていたとかいうサリンジャーの考えがうかがい知れるというものだ。
 大学の頃にとった杵柄に今もその残滓がこびりつき、それはうまいこと自分のノートに転記されている。未確認だが、自分は、読者に対する言及を全て抜き出していたようだ。なんて見上げた奴だろう。以下、過去の自分からの贈り物を有効活用したい。

四十才になって、わたしは、落ち目になると振り向いてもくれないわが旧友たる一般の読者がわたしときわめて世代が近く、信頼するにたる最後の友人であると思っているし、またわたしは十代を過ぎるずっと以前に、今まで個人的に知り合った人物の中では一番面白く、根本的にはすこしも横柄でない高名なる職人から、そのような礼儀正しい関係はどんなに奇妙で、恐ろしいものであろうと、心から尊敬しなければならないとさんざん言われてきた。

 

ここで断っておくが、これからわたしの傍白はやたらと多くなるばかりでなく(実際、脚注まで一、二つけるようになるかもしれない)、時としては本来の筋から外れたものでも、刺激的で面白くそのほうへ話を進めてゆく価値があると思えば、自分としては遠慮無く読者に負担をかけるつもりである。この際、スピードなどということは、神よ、アメリカ人としてのわが身の安全を守りたまえ、わたしには何の意味もないのだ。しかし読者の中にはもっとも抑制のきいた、もっとも古典的な、おそらくはもっとも巧妙な方法で関心を惹いてほしいと、真面目に要求する人たちもいるので、わたしとしては――一人の作家としてこうしたことが言えるかぎり、できるだけ正直に申し上げるが――そうした読者は立ち去ることがのぞましく、また簡単だと思われる今のうちに、立ち去ったほうがいいと申し上げておく。

 

おまえの最初の読者になるということはなんと幸福なことだろう。おまえがぼくの意見よりもおまえ自身の意見を尊重するようであれば、まったく幸福なんだが。
(引用者註:バディの小説を読んだシーモアが書いた小説の感想の一節)

 

こう言ってもあなたはわたしを許してくださるだろうと思っているが、もっとも、すべての読者が熟練した読者であるとはかぎらない(シーモアが二十一歳、英語のほとんど正教授といってもよく、教壇に立ってから二年たったとき、わたしは彼に、教えるという仕事で意欲を失わせるようなことがあるとすればそれは何かとたずねたことがある。彼はまったく意欲を失わせるようなことはなさそうだが、考えるとひとつだけぎょっとすることがあると言った。それは大学の図書館の書物の余白にある鉛筆の書き込みを読むということだった)。

 

甲高く不愉快な声(わが読者の声ではない)。あなたは兄さんがどんな様子だったか話すと言ったじゃありませんか。なにもこんなつまらぬ分析やべたべたしたことはききたくありませんよ。

 

このあたりで、服装というたいへんな問題にふれておかねばなるまい。もし作家が、作中人物の服装について、ひとつ、ひとつ、しわを一本一本描いてもいいということになったら、どんなにすばらしく都合のいいことであろう。何がそれをさまたげているのか? ひとつには、いままで会ったことのない読者を不利にするか、それとも読者の有利になるように解釈するかのどちらかになる傾向があるからであり――不利にするという場合は、作家が読者よりも人間一般や社会的慣習についての知識を持っていると思う場合であり、有利に解釈するという場合は作家が、自分の知っているような些細な、複雑な事柄はよく知らないのだと思いたがるときである。

 

今夜は、わたし自身が眠りの精だ。おやすみ! 腹立たしいほど無口なみなさん!

 

わたしと同じ年齢で同程度の収入があり、自分の死んだ兄弟のことを魅力的な半ば日記形式で書く非常に多くの人間は、わざわざ読者に日付を知らせたり現在自分のいる場所を教えるようなことはしない。共同で仕事をすることなど考えてもいないのだ。わたしもそんなことはするまいと誓っている。

 

ああ、これは何と気高き職業であることよ。わたしはどこまで読者のことを知っているというのか? わたしはたがいに不必要に当惑することなく、読者にどれだけのことを伝えられるというのか? しかし読者に次のようなことは言える。読者自身の心の中にわたしたちそれぞれのためにある場所が用意されているのである。

 
 饒舌体の熱気にやられて読み飛ばした人もご心配なく。暇をもてあました自分が、おびただしい引用の中から作家と読者にまつわるキーワードを抽出・要約してみせよう。間引きをする手つきはかなり慎重にするつもりだ。

「読者は落ち目になると振り向いてもくれない作家の旧友である」
「読者は信頼するにたる最後の友人である」
「作家と読者は礼儀正しい関係である」
「作家に要求しようとする場合、その読者は立ち去ることが望ましい」
「すべての読者が熟練した読者であるとはかぎらない」
「甲高く不愉快な声は、読者の声ではない」
「作家が読者の意見よりも作家自身の意見を尊重するようであれば、まったく幸福である」
「作家の記述が細部にわたればわたるほど、作家は、そこに含まれている知識や慣習を読者が知らないと思うときには読者を不利にし、そこに含まれている些末なことを読者は気にしないと思うときは読者を有利にする」
「読者は腹立たしいほど無口である」
「作家は読者と共同で仕事をすることなど考えていない」
「作家は気高き職業である」
「作家は読者について多くのことを知らない」
「たがいに不必要に当惑することなく、作家が読者に伝えられることは少ない」
「読者自身の心の中に作家たちそれぞれのためにある場所が用意されている」

 思い出してみれば、上述したギールグッドと旅役者の関係は、バディが小出しにする作家と読者にまつわる諸条件を驚くほど多く満たしている。
 では、なぜサリンジャーは、作家と読者という関係をここまで意識するのか。それは、彼がかつて、作家である前に読者であったからだろう。
 サリンジャーは、『ライ麦畑でつかまえて』にこう書いている。というか、ホールデン・コールフィールドがこう言っている。

本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わったときに、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持を起こさせるような本だ。

 
 これは、先ほどのバディが語っていた「作家と読者」の認識とは異なるものだ。
 1974年にジョン・アップダイクもこう書いている。

 J・D・サリンジャーは傑作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を書いて、本が好きな読者は作者に電話するよう勧めていた。
 それなのに彼はその後20年間電話を避けて過ごした。


 サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』のあと、その本が生んだ毀誉褒貶の声に苦しんだことが知られている。求める静かな生活がニューヨークではできなくなり、サリンジャーは片田舎に移り住む。はじめは地元の高校生とも交流していたが、親しくしていた少女が「高校の壁新聞用に」と行ったインタビューを地元新聞社に売り込み、スクープとして掲載されたことで、サリンジャーは激怒、完全に孤立した生活を送ることになった。
 自分が、これまでに費やした27000字をもって、決して少なくない作家たちが「全世界を異郷と思う者」の周縁を巡っていることについては確認した通りである。この文章では、何度でもいちばん最初に立ち返るつもりだが、サリンジャーもまた、実生活の上でも「全世界を異郷と思う者」へと続く道を選んだのである。

 さて、ホールデンの台詞とサリンジャーの遍歴を照らし合わせると、そこから導き出され、「シーモア―序章―」のバディの口ぶりに表れているのは、ホールデンのような読後感を持った、作家に電話をかけたくなる読者に向けた訂正もしくは追記のメッセージであるように思われる。
 サリンジャーのそのメッセージは、特に、その中でも実際に行動を起こし、作家の生活を暴き、脅かすような者たちに向けられている。
「読者諸兄、電話をかけるのはやめたまえ」とサリンジャーは言うのである。
 ちなみに「シーモア―序章―」は1959年だが、アップダイクはこれに重きを置いていないらしい(彼は『フラニーとゾーイー』にも厳しく欠点を指摘した、しかしサリンジャーを敬愛してもいた)。

 読者は、作家が苦悩するようには読まない。そればかりか、作家のことを自分の都合よく「あるべき場所」に安置する。だが、「成熟した読者」であれば、現実の作家がその場所から外れたように書いたとしても黙っており、「甲高い不愉快な声」を上げることはないはずだ。だから、作家が求める読者は「腹立たしいほど無口」であるはずだ。そんな風にサリンジャーはバディの口を借りる。と同時に、バディはそのような読者へ向かって語りかけているということを示すのである。
 バディは当時のサリンジャーと同じ40歳で、これも同じく山奥での隠遁生活を送っている。バディが現役の大学教授であるという点では当時の実作者とは異なるが、バディの意見はが少なからずサリンジャーの意見であるということは言ってもよかろう。この死後も読者を増やし続ける作家は、少なくともその創作的態度において、接触可能な実体ある読者を求めない。

 

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)

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ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

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