ワインディング・ノート6(自分・自分・自分)

 中学以来、自分という人間は、とにかく他人と関わって自分について何か言われることが、もっと言えばそこに存在することがとてもイヤだったというのは書いた。国語は非常によくできた。目立った行動は取りたくないので、校外模試や学校のテストなんかでは、高3の秋までわざわざ間違えた答えを書いたりしていたが、志望校にも関わってくるので真面目に答えるようになると、河合塾の模試だが急に全国で50番など取るので国語の教師に褒められたりして、こくりこくりと頷き、時折アハハと笑いながらやり過ごした。こういうところの1つ1つに虚飾が混じっていると思うけれど、自分は誰ともしゃべれたが、誰にも心を開かなかった。まあ、本はよく読んでいると言えた。それよりも松本信者だった。島田紳助を嫌うならば松本人志を好きになる資格はないと信じているほどのアブない奴だった(今でも思っている)。

 家族が嫌なわけではないが、ずっと一人暮らしがしたかった。一人で静かに暮らしたい。大学になったら是非ともそうしよう。かと言って、あまり地方にも行きたくない。そういうわけで高1のとき、多摩にキャンパスがある法政大学に行こうと決めた。
 受験勉強はしたくなかった。本も読むし、テレビも見たいし、ゲームもしたいし、ブログの更新もあるし、いそがしい。国語は何の心配もしなかったが、試験に使う英語と日本史はそこそこの成績なので、どうしたものかと考えた。かといって予備校にも通いたくない。
 とりあえず、英語はウイニングイレブンの全選手名を『英単語ターゲット1400』をもとに「英単語/日本語」にエディットして何十シーズンもリーグ戦を行うことにした。これでよし。日本史は、冬休みにセンター試験の過去問を10年分解いてよし。
 結果、英語は9割とれて、日本史は8割、国語は「腐心」の漢字だけまちがえた。センター利用入試という簡便な制度で、思惑通りの大学へ進むことができることが決まり、鼻を鳴らして安堵した。曰く、くだらんものだなあ。
 早稲田も教師と親をだまくらかすため受験料を払い、試験日の早朝「がんばって参ります」と元気に家を出たが、その日は半日、山手線を内回り外回り、ゴールディング『蠅の王』を読んで、子供たちが救出される直前まで読んで帰った。「むずかしかった」と夕ごはんを食べながら自分は言った。上手く隠れているつもりだったが、最後の保護者面談で、母親は担任に「いろいろな生徒を見てきたが、あなたのお子さんだけは良くわからない」と言われたらしい。数年後にそれを明かした母親はぷりぷり怒っていた。自分はソファに寝転がって、ハハハと乾いた笑いを起こした。

 法政大学多摩キャンパスは、駅からも離れた丘陵にある。一人暮らしの下宿からスーパーカブで通う山間の道には小さな牧場があり、トンネルを抜けると牛のにおいが鼻をついた。
 人と交際するでもない自分は、数ある書物や何かをラッキーアイテムにますます陰気を上昇させ、ブログを更新するばかりの日々であった。自宅、図書館、道路。この他のことはあんまり覚えていない。
 そんな毎日から、例のメールをもらうまでは特に書くべきこともない。喘息で死にかけたり、体育で骨折して足に金属プレートが入ったり、交通事故でスーパーカブが下取りされ、自分の耳も破れたりしたぐらい。

 さっさと飛んで、先生からメールをもらった時の気分を簡単に言おう。
 自分は、その身に余る内容を一読して、うれしくないわけではなかったが、本当にうれしいかといえば本当にはうれしくなく、非常に居心地が悪く、しばらくもう二度と読まなかった。
 十代と二十代のいつも、自分はどこかで不快なまま生きている。膿のような淡い不快が一向に体外に排出されず、困りもしないが、さわやかな気分を味わったことがない。
 田中優子先生は当時から述べるまでもなく、世間的にもえらい人で、こんなことに意味はないがTBS「サンデーモーニング」にも時折出演していて、張本や大沢親分を間近で見られるなんていいなと思っていた。
 文面からもわかろうが、先生が、自分のような人間をわかって、あまり立ち入らずにいてくれたのは確かである。だからずいぶん安心していた。言葉を交わした記憶はあまりない。自分はゼミの集まりもよく休んでいて、半分ほどしか行かなかった。よくない。

 大学3年になり、研究テーマを決め、一年かけて何か書くことになった。年の初めなので参加しているゼミの場で先生に問われ、自分は「平賀源内について何か書こうかなと思っています」と言った。多才で如才ないが不器用に生きた人間に自分を当てこんでか、多少の興味を持っていた。
 それから数日して、自分の下宿にとつぜんダンボール箱が送られてきた。見ると先生からである。開けてみると、本が十数冊、ゴワゴワした大きなビニール袋にひとまとめにされて詰まっていた。どれも平賀源内にまつわるもので、実は半分ほどはすでに持っていたが、絶版の貴重なものも多数あった。お礼のメールをすると、使ってくださいと簡潔な返事があった。むろん、こんなことをされた生徒は他にいない。
 そこで自分はどうしたか。そんなに褒められて、期待されて、「文章に惚れ込んでいる」とまで言われ、至れり尽くせりされて、うまくすれば大学院にも楽々上がれただろうし、その後も各方面で世話になることもできただろうに、どうしたかというと、自分は4年に上がらず、先生に一言もなく大学を休学し、当然、ゼミもやめてしまった。

 そのくせ、認められるということが自分にとって何の意味も持たないことをはっきりと自覚した鳥でもけものでもないという心境の大学生は、消沈し、まんじりともしない不快を覚えていたのだから苦労しない。
 休学した自分は千葉の実家に戻された。誰とも会わず、ひたすら読書したり、ブログやブログにすら載せない文章を書いたりして暮らした。
 あっという間に1年後、4年になって復学すると、先生も1年間休んで大学にいなかった。自分は東京を横断するような片道3時間を読書に投じて大学に通い、先生のお目にかかることもなくひっそり卒業した。
 先生が送ってくれた本は、8年経った今なお、ダンボールに収めたまま本棚の上に積まれている。見るたびに思い出す。思い出し、悪いと思って、それだけだ。胸が痛むというわけでもない。ずいぶん薄情だ。誰がどう見ても無礼だ。
 これでひとまず自分の話はおわりだ。万歳。ビル掃除に行ってこよう。