ワインディング・ノート5(サリンジャー・田中優子先生・感傷)

 ノートを眺めていると、太宰が証明するように、なることもできない「完璧な人間」の正体を、自分もまた追い求めているように思える。そうなりたいと思っているわけでもないのに不思議な感じだが、そうするより仕方がないという気がずっとあるのだ。だから、そんな人間の放った言葉ばかりが、秋風に吹きだまる枯れ葉のように集まってくる。
 それと関係するのかはわからないが、自分はこれまでずっと、何か人様のお役に立ったり、書いたものを褒められたりするでもいいが、とにかく人間と関わった時に、その関係の底から勝手に生じてくるあらゆる反応を見るのが、いやでいやでたまらなかった。恥ずかしく、居心地が悪いように思えて、逃げ出したいのだ。
 小学校では優等生で、リレーの選手も児童会長もやり、まずまず将来を嘱望されているような心地も子供ながらにしており、それほどの衒いもなくやっていたのだけれど、卒業すると勤めが終わったような心地がして、私立の中学に入って以降、とにかく人の評価や貢献の場に預かるようなことを一切しなくなった。どうも、意図を含んだ人のまなざし耐えられないようなところがあった。
 こんな身の上話がいちばん嫌いなのだが、それでも、書かずにいられないのは、少なくとも、自分のことを作家のようなものだと考えることに対して、いくぶん真剣になっているからだ。
 で、こんな風な、中学になったボクは人と関わることをやめ、独立不羈の精神をブレザーの内ポケットにそっとしのばせて……というようなご大層な回想が、今の自分から逆算した都合のいい考えという一面も持っているのは否めない。
 自分について語る場合、その罠に落ちない人などいないのだ。
 我々言語を操る人間、いかなる重大な告白をともなった文章も、サリンジャーがバディ・グラースに身をやつして語っているような以下の危険を、なかんずく携えることになるのである。

告白的文章というものは、まずもって自慢するのをやめたという作家の自慢が鼻につくものである。いつでも、公然と告白する人間から聞くべきものは、彼が告白「していない」ことなのだ。人生のある時期で(悲しいことだが、たいていは成功している時期)、人はとつぜん大学の期末試験でカンニングをしたと告白できると思うかもしれないし、22歳から24歳まで性的不能だった、と知らせようと決心するかもしれないが、こうした勇気のある告白それ自体は、当人がペットのハムスターに腹を立てて、その頭を踏みつけたことがあったかどうかを探りだせるということを保証するものではない。
(J.D.サリンジャー井上謙治 訳「シーモア―序章―」)

 
 ただ、そうとも言い切れない面もある。
 例えば、人や事物がそれを保証する場合に、とにかく、そのような事実があったらしいことはうかがえるわけだ。きちんとやれば、リゾート地で拳銃自殺した謎めいた才ある大家族の長兄の姿をかなりリアリティをもって現出できるだろうし、卑弥呼のまじないによる時を超えた告白を聞くまでもなく、全ての信頼に足る情報を寄せ集めると、彼女がどこに居を構えていたのかなんてことがわかりそうなのである。その手続きは学問だ。
 つまり、過去の自分がどうだったかなんて当人から聞けば眉唾ものだし、はっきり言ってそんなに熱心に耳をそばだてようとも思わないが、その時、当時の第三者の貴重な証言が発掘され、それに対して当人はこれこれこんな対応をとったということが、とりあえず事実としてはっきりしているのであれば、まあ、話のおもしろさというのを別にして、何か目的があるのなら、まずまず素直に耳を傾ける値打ちがあるのではないかということだ。バディがしつこく、語るに落ちる危険性を弁明しながら兄のことを語っていった理由がとてもよくわかる。
 それは、非常に恐ろしいことなのだ。
 もう8年前になるだろうか。自分は、大学2年の終わりに、以下のようなメールをゼミの担当教授だった田中優子先生からいただいた。今では、先生は法政大学の総長になっているそうだ。

 レポート受け取りました。これでめでたく1年が終わり、○○君は単位を取ります。しかもAで。

 1年の最後なので、いろいろ正直に書きます。何を正直に言いたいかというと、「あなたは単位を取る」とか「Aだ」とか告げることが、なんだかヘンな気がしてます。大学教員になってそういうことを「へんだ」と思うのは初めてなのです。ゼミでは確かにあなたを「学生だ」と認識しているのですが、文章を読むたびに、単位を与える対象としての学生には思えなくなるのです。私は確かに「読者として」読んでしまっているのです。

 しかもこういうことを「学生に」書いてしまう、というのが、もうひとつへんなことです。あなたの文章は人を究極まで正直にしてしまうのではないかしら。最初は単に才能があるからだと思っていましたが、そのうち「才能って何だろう?」と思うようになりました。祭についてゼミをしながら、「なぜ祭について論じているのだろう」と思うことがあり、最後のレポートではついに、「言葉とは何か」まであれこれ考えているのです。

 あなたの文章を読むたびに「めまい」がします。私が好きな江戸時代の画家に伊藤若冲という人と曽我蕭白という人がいます。若冲の描く樹木は、上から、下から、空中から、同時に眺めているようで、その枝はこちらの空間に突き出し、あちら側にも突き抜けます。蕭白の獅子は、走りながら空中を落ちていて、それを見あげながら、同時に、見下げているのです。遠近法のもくろみのように、「私はここにいる」という定点を自分に見出すことはできません。だからめまいがします。
 あなたの文章は読む者の定点を揺らがせるのです。そして次に、思考の渦に投げ込む。

「どうしよう(この言葉の意味は、教授という立場から言うと、どう指導しよう、という意味です。ばかばかしいことに)」と考えながら、ひとりの読者として、あるいは、人間に対する人間として、そのたびに正直に伝えるのが、もっともいいのではないか、と思うようになりました。
 ほめても意味がない。ほめた結果、あなたが「文章で食べられるかも知れない」と思ってしまうことも、恐れています。私はあなたの文章に惚れ込んでいます(そういう表現しか思いつかない)。しかし、その文章やその才能が、出版界で「商品」として売れるかどうかは、別問題なのです。本屋に並んでいるヒドイ本を眺めていれば、商品とはどういうものか、わかると思います。

 ならばそれがどういう未来につながるのか、それはあなたにとっても私にとっても、手探りです。あるいはつながらないかも知れない(これも恐れていますが)。ちなみにここでの「未来」という言葉の使い方は、教授としての使い方です。

 
 自分はこんな人間だったということを証明するために、私的なメールを引っ張り出して、自分の方の名は伏せながらネット上に公開するなんて、恥知らずで恩知らずの馬鹿がやることだ。
 それでも、自分は書くことに関しては、ここに書かれているように真摯を貫いてきたつもりなのだから、先生も許してくれるだろうと思う。自分は今、先生が宛ててくれたこの文章をもとに一生懸命考えるつもりでいるのだから、許してくれるだろうと思う。この文章は文学という曖昧なもののため浅学なりに考えと夜を徹して書いているのだから、許してくれるだろうと思う。
 思うけれども、そんなことは全然関係がない。自分はただ先生に頼むしかできないけれども、かと言って許してもらえなくても構わない。ああ、先生はレポートの添削で、あなたの文章は「~けれども」の接続が多いので灰汁が出ぬよう気をつけるように教えてくれた。なのに、自分はこの助言をしばしば守らない。けれど、いつでも忘れたことがない。
 悔やむな。何はともあれ、このメールを衆目にさらしたのが何のためであるか肝に銘じ、意気地を出して、(そんなものがあるならば)心を込めて書くことにしよう。そしてそのために、もう少し自分の「人生」を振り返り、後追いし、まとめてみたい。
 これはまぎれもない地獄の所業である。
 のたうちまわってきた道や足下にぬらぬら光っている体液のきらめきこそが、「感傷」と呼ばれるのだ。それはその都度振り返るたび、精神の天候に応じて濡れたり乾いたりしていて、世間一般ではこれを美しいととる場合も多々あるようだが、自分は万事恐ろしく思って避けてきた。しかし、人は感傷なしに何かを思い出すことなどできはしない。だからせめて、堂々とやることにしよう。必要とあらば。

 

 

 

 

 

江戸百夢 近世図像学の楽しみ (ちくま文庫)

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  • 作者:田中 優子
  • 発売日: 2010/05/10
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