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ワインディング・ノート3(太宰治・「徒党について」・三すくみ)

 人間関係を、贈答、ギブ&テイク、義理に雁字搦めとなった気詰まりなものとしてとらえている太宰がいる、という話だった。そのくせ、という話だった。

兄妹、五人あって、みんなロマンスが好きだった。長男は二十九歳。法学士である。ひとに接するとき、少し尊大ぶる悪癖があるけれども、これは彼自身の弱さを庇う鬼の面であって、まことは弱く、とても優しい。弟妹たちと映画を見にいって、これは駄作だ、愚劣だと言いながら、その映画のさむらいの義理人情にまいって、まず、まっさきに泣いてしまうのは、いつも、この長兄である。
  (「愛と美について」)

 
 この例をとって全てが言えるわけではないが、そのくせ、義理人情が好きなのだ。そのくせ、与えられた恩を素直に返すことができないのだ。
 とにもかくにも太宰は、こうした「そのくせ」という言葉に彩られる、まことは弱く、とても優しい人物ばかりを執拗に書いている。
 それはもちろん、太宰がそんな人間について一家言もっているせいだという風に考えるのが自然だろう。

 贈与というのが慣習である以上、そこに「本当の気持ち」とでもいうようなものは無視される。というか、無視されるからこそ、贈答の関係は十全に機能する。心から感謝していようが、いい加減な気持ちでやっていようが、個々の人間がナイーヴに傷つくことがないようにできていることで、社会関係を維持する機能を有するのだ。
 しかし、それは共同体にいればこそ、である。
 もしも、その中に「全世界を異郷と思う者」がいて贈答に巻き込まれたとしたら、彼はそのたびに、相手の真意を憂慮し、その非対称の関係がもつ不気味さに怯えることになる。
 映画で描かれる義理人情は、そこから不気味さが除染された美しいものであり、だから、太宰的人物である「長兄」は安心してこれを受け入れ、まっさきに泣いてしまう。かわいいものである。

 贈答だなんだと言っているが、別に伝統的なことに関わらず、人がそれぞれのポジションを保って他者と関係を持とうとすれば、こんなことはどんな場面でも起こりうる。Twitterで星をつけたりつけられたり、リツイートのしたりされたりに不安を覚えるのだって同じことだ。
 太宰はそこで揺れ動き不安に苛まれてしまう人間をよく書いた。これは「完璧な者」の所作である。
 そんな風に「完璧な者」について考えが及びながら、「よく隠れし者は、よく生きたり」という言葉を座右の銘にはしなかったのは、スキャンダラスな生涯からも明らかだ。太宰は、どうあってもその範疇には収まることができなかった。しかし、それを自覚していないわけでもなかった。むしろ誰よりも自覚していた。それでも黙ることができず、あんな生涯になったのは、彼の資質もあるが、なにより、太宰がまぎれもない作家であったためだろう。

ひとことでも、ものを言えば、それだけ、みんなを苦しめるような気がして、むだに、くるしめるような気がして、いっそ、だまって微笑んで居れば、いいのだろうけれど、僕は作家なのだから、何か、ものを言わなければ暮してゆけない作家なのだから、ずいぶん、骨が折れます。
(引用者 中略)
 Kは、僕を憎んでいる。僕の八方美人を憎んでいる。ああ、わかった。Kは、僕の強さを信じている。僕の才を買いかぶっている。そうして、僕の努力を、ひとしれぬ馬鹿な努力を、ごぞんじないのだ。らっきょうの皮を、むいてむいて、しんまでむいて、何もない。きっとある、何かある、それを信じて、また、べつの、らっきょうの皮を、むいて、むいて、何もない、この猿のかなしみ、わかる? ゆきあたりばったりの万人を、ことごとく愛しているということは、誰をも、愛していないということだ。」
    (「秋風記」)


 「猿のかなしみ、わかる?」というのが実におもしろくって好きなのだが、「万人をことごとく愛している」のは、「あらゆる場所を故郷と感じられる者」の業と言ってもよいかもしれない。
 しかし、太宰は、それは個人を認めないということであり、認めないということは、誰をも愛していないことだと捨て鉢に言う。
 それにより、内も外も無いのだと言って「全世界を異郷と思う者」の領域まで足を踏み出しながら、そこに、きまって「キザ」のにおいを感じ取り、断固毛嫌い、「猿」まで退行するのである。
 「徒党について」という、死ぬ年に書かれた文章は、実に象徴的なものを自分に夢見させる。

 徒党は、政治である。そうして、政治は、力だそうである。そんなら、徒党も、力という目標を以て発明せられた機関かも知れない。しかもその力の、頼みの綱とするところは、やはり「多数」というところにあるらしく思われる。
 ところが、政治の場合に於いては、二百票よりも、三百票が絶対の、ほとんど神の審判の前に於けるがごとき勝利にもなるだろうが、文学の場合に於いては少しちがうようにも思われる。
 孤高。それは、昔から下手なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞を奉られている人にお目にかかってみると、ただいやな人間で、誰でもその人につき合うのはご免、そのような質の人が多いようである。そうして、その所謂「孤高」の人は、やたらと口をゆがめて「群」をののしる。なぜ、どうしてののしるのかわけがわからぬ。ただ「群」をののしり、己れの所謂「孤高」を誇るのが、外国にも、日本にも昔はみな偉い人たちが「孤高」であったという伝説に便乗して、以て吾が身の侘びしさをごまかしている様子のようにも思われる。
 「孤高」と自らを号しているものには注意をしなければならぬ。第一、それは、キザである。ほとんど例外なく、「見破られかけたタルチュフ」である。どだい、この世の中に、「孤高」ということは、無いのである。孤独ということは、あり得るかもしれない。いや、むしろ、「孤低」の人こそ多いように思われる。
 私の現在の立場から言うならば、私は、いい友達が欲しくてならぬけれども、誰も私と遊んでくれないから、勢い、「孤低」にならざるを得ないのだ。と言っても、それも嘘で、私は私なりに「徒党」の苦しさが予感せられ、むしろ「孤低」を選んだほうが、それだって決して結構なものではないが、むしろそのほうに住んでいたほうが、気楽だと思われるから、敢えて親友交歓を行わないだけのことなのである。
 それでまた「徒党」について少し言ってみたいが、私にとって(ほかの人は、どうだか知らない)最も苦痛なのは、「徒党」の一味の馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、かえって賞讃を送らなければならぬ義務の負担である。「徒党」というものは、はたから見ると、所謂「友情」によってつながり、十把一からげ、と言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、まことに小気味よく歩調だか口調だかそろっているようだが、じつは、最も憎悪しているものは、その同じ「徒党」の中に居る人間なのである。かえって、内心、頼りにしている人間は、自分の「徒党」の敵手の中に居るものである。
 自分の「徒党」の中に居る好かない奴ほど始末に困るものはない。それは一生、自分を憂鬱にする種だということを私は知っているのである。
 新しい徒党の形式、それは仲間同士、公然と裏切るところからはじまるかもしれない。
 友情。信頼。私は、それを「徒党」の中に見たことが無い。


 「徒党」というのは、広く狭く共同体と言ってもかまわないだろう。この言葉のチョイスにはトゲがあり、太宰の反感がよくわかる。
 その中でも最後に出てくる「新しい徒党の形式」というのに注目したいが、仲間同士でありながら裏切れるということは、言わば、贈答(贈る―答える)が成立するかどうか不確定な、信頼できない非対称の関係でありながら、1つの共同体であるということだ。
 もちろん、こんなことはありえない。だから、これこそが「全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」ということなのだ。自分にはそう思える。そして、そこに太宰がたどり着くことはなく「孤低」に落ち着かざるを得ない顛末がよくわかる。
 完璧ということはありえない。だから、ありえないがゆえに完璧なのだ。そして、ありえない完璧さは、それがありえた時の様態を示すことができない。示す必要もあるまい。
 デカルトが示した暫定的道徳の三大格率も、再び記しておこう。

・住んでいる国・地域の法や慣習に従う
・選択肢があった場合、より成功しそうなことを選び,一度決定したことには従う
・世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように努め、不可能なことは望まない

 
 ぜひとも「徒党について」に戻ってもらいたい。
 太宰はこの格率を遵守しようとしており、それが妙におかしい。どんな結果を生むのであれ、こうしたことをくそ真面目に標榜せざるを得ない点で、やはり太宰は立派でおもしろい、興味ある人間であると思う。
 太宰は、道徳的に立派な手続きをとって、机上の「完璧な人間」とやらに安住したいのだが、その不可能性および自分という人間との相性の悪さを自覚しているため、三大格率を守りながら、デカルトの言うように、ありえないかも知れない完璧な絶対的道徳規則を実現する者へと接近していくしかないのである。
 そのくせ、ぜんぜんうまくいかない。
 それが、まっとうに悩むということだと自分は思う。だから、耳を傾けなくてはならない気がする。

    故郷を甘美に思う者は、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。


 そして、作家太宰治としてそのような人間の有様を扱うとき、つまり、「作家としてものを言わなければ」ならないとき、彼はこの3つのタイプを修行者のように巡り、演じ続けることしかできないのである。
 それゆえ、彼は何を書こうと、いかに迫真的な場面が訪れようと、心中から逃れるように、ユーモアに身を翻すことができた。
 つまり、こういうことだ。
 「故郷を甘美に思う者=未熟者」が出てくれば、それを「あらゆる場所を故郷と感じられる者=力を蓄えた者」として余裕あふれる顔で眺め、ユーモアに変えてしまう。その余裕あふれる顔に語りのピントが合った途端、その顔を「全世界を異郷と思う者=完璧な人間」として母が子に憩いを許すように眺める者を登場させ、冷笑する。かと思えば、その冷笑する姿を「故郷を甘美に思う者=未熟者」の視線で照射することで、滑稽に露出させてしまう。
 3つの視線は循環し、交錯し、三すくみを構成する。
 本来、この思惑のこもった不気味な視線のしがらみを中和するのが法や慣習である。しかし、太宰はそれを信じられないのだ。

 さて、こうした三すくみは、村上春樹が小説を書く際に召喚するという「うなぎ」を思い起こさせもする、ということで次回へ続きたい。

 

太宰治全集〈2〉 (ちくま文庫)

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太宰治全集〈10〉 (ちくま文庫)

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