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冬のザボエラ

 「熱帯魚見せて」「マンガ見せて」の乱れうちによって、サークルの飲み会おわりで芋川さんの一人暮らしの家に招かれた俺。熱帯魚はみんな死んでたし、たくさん持ってると言っていたマンガは俺の持ってる1000分の1しかなかった。というか『ダイの大冒険』しかなかった。俺はそれでよかった。
 2時間、俺は一言たりとも、いや、最初に「ダイの大冒険で誰がいちばん――」「ザボエラ」と答えた以外は一言も喋らなかった。気まずすぎる。慣れていないからだ。加湿器だけがひそひそ話みたいな音を立てていた。
 しびれを切らせたのは芋川さんだった。
「お腹すいてない? ラーメンか何か作ろうか?」
「ザボエラ」
 突然話しかけれたからまたザボエラと言ってしまったし、俺は女の子の部屋に初めて入ったというのに2時間、妖魔士団長の名前しか言わない体たらくだが、どういうわけか芋川さんには伝わったらしい。
「ちょっと待っててね」
 彼女がキッチンと隔てるドアを閉めた瞬間、俺は動き出した。いったいぜんたい、あんともちゅうともねえ、ここからどうやってどうすれば、松本人志曰く、セ・リーグパ・リーグが戦うことになるのやら……もっと、もっと俺の存在を彼女のドたまにはっきり植えつける必要がある。今日だけじゃ無理かもしれない。そもそも恋愛というのはそういうものだと聞いている。即アポ即ハメなんて都合のいい話があってたまるか。己の全てを異性に刻みつけるのだ。恋のザラキをかけ続けるのだ。最後の最後、勝利の女神が微笑むか頬をひっぱたくか股を開くかするその瞬間までがんばりつづけろ……俺は部屋の隅であいかわらず辛気くさい音をたてている加湿器に目を光らせた。
 すぐそこなのに、頭を先にする飛び方で向かう俺。加湿器のタンクを外し、一分一秒もムダにしてられねえ、返す刀でズボンも下ろす。ゴムのジャージ、ゴムのトランクス、オラに力をちっとだけ分けてくれ……!
 かるく腰をゆすぶると全部落ちた。サンキュッ。
 2時間も経っていたせいで、タンクの水は半分ほどになっていた。口ほどにもない。キャップをはずし、そこに尿を流しこんだ。こうすることで、俺のフェロモンが彼女の室内に適湿で満ち、俺の成分が、毎日の呼吸を通して、彼女の体内に蓄積していくことだろう。そして、朝おきた時、のど痛くないだろう。いたわりの気持ちに満ちた完璧な作戦だ。
「ねえ、なにか飲むー?」
 芋川さんがキッチンから声をかけてきた。心臓の中でゴリラが暴れ始めるが、俺はとっさに答えた。
「いや、いいよ……俺、汁も飲むから、それでいいよ!」
 言ってから、そんなおかしい話があるかと不安になった。それでも俺にできることといえば、尿を音なく伝わせながら返事を待つことのみ。
「ザボエラ」
 彼女はそう言った。それが了解の合図だとはっきりわかった。俺たちに与えられたこのわずかな時間に約束された、秘密の合図だとわかった。
 体中に風がふきこんだ。俺はそれを、またてっきり、冷たいものと勘違いした。ただしちがった。それはあたたかい。俺の心の閑散とした部屋、冷たい洗面所の空っぽの棚、そこに、つぎからつぎへ色とりどりのバスタオルがつみかさなってやわらかそうに跳ねているような、そんな感覚……ああ、これは柔軟剤も揃えなければなるまい、そうしたら、どんなにすばらしい匂いに包まれるだろう……。
 手にかかる異常な重たさが、俺を正気に戻らせた。透けているタンクはほぼ満タン、そして真っ黄色になろうとしていた。タンクはさながらお徳用のオロナミンCのよう。俺は尿を止めた。
「と、止まらないッ!?」
 止まらなかった。いくら下腹部に力をこめても、ぜんぜん尿が止まらない。俺はタンクを左手だけに持ちかえる。そして、空いた右手の人差し指で、玉どめする時のように、包皮を一周まきとった。包皮の内部に尿がたまり、爆発的にふくらむ。落ち着け。まだ大丈夫だ。セルだって膨らんでかなりしてから爆発したじゃないか。
 俺は右手の空いた指でキャップを閉めようとする。キャップが膨らみきった包皮にこすれて、かなり危ない。その間も、尿はめちゃくちゃに出ているのだ。どうしたんだろうね、と思うほどだ。
 俺はなんとか耐えた。キャップを閉め、タンクを加湿器に戻すことに成功した。
 しかし、そこでもう限界だった。今や具が3つ入りのひどいおにぎりほどに膨らんだチンチンは、どんな手を講じようと、1秒も持たずに爆発するであろうことがはっきりとわかった。
 体が勝手に動いていた。俺は生まれて初めてバク転していた。無論、片手だけ。ガンバリスト駿のように跳んだ。キモオタの俺に、なぜこんな事が……? 美しい弧を描いた、俺の膨らんだ下半身。そこが、そこだけが、背後にある、熱帯魚の、水槽に、突っ込んだッッ!!!
 腐りかけのぬるたい水の中で、俺は右手を解放した。吐き出された温水が、すさまじい水圧で黄色い風となり、砂を巻き上げ、死んだ熱帯魚を浮かび上がらせ、ガラスにはりつかせた。
「勝った……」
 と俺は言った。だが違った。尿は止まっていなかった。俺は、飲み会であんなに酒を飲んだのに、トイレに一回も行かなかったのである。君と話すのが楽しくて、嬉しくて、一度も行かなかった。わずかな時間がおしかった。君が、誰か他の人と話すのがこわかった。
 水槽はもうあふれそうだった。これ以上、ここに長くはいられない。どうすればいい? 水槽にちんちんだけ浸けたカエルの姿勢で部屋を見回す俺が鏡に映った。俺は情けなくも、悲しくもならなかった。まぎれもなく、彼女の部屋にいるのだということがわかったから。それなのに、どうして、俺の顔は、くるおしい涙でゆがんでいた。鏡の奥に、彼女の本棚が見えた。


「できたよ~」
 と言ってドアを開けた時、私はほんとうにびっくりした。
 及川くんが、私の本棚に向かって、おしっこをかけていたから。そして、及川くんが泣いているのがわかって、もっとびっくりした。
 及川くんは、私の『ダイの大冒険』におしっこをかけながら、そのあたり一面をびしょびしょにしながら、おしっこの匂いで充満した部屋の空気をふるわせて、苦しそうな声で、今まで聞いたことがないほど、たくさん言った。
「ぜんぜん吸わないよ。ぜんぜん吸わない……芋川さん、きみはぜんぜんマンガ持ってないじゃないか…ぼくの1000分の1も持ってないじゃないか……だからぜんぜん吸わないんだよ、ガッカリだよ……誰もみんな変わらないでいてくれと願うのに、そんなことなどありえない。勝手に期待して、勝手にがっかりして、されて……。ぼくはザボエラのようになりたい、このまま自分のいい時間がずっと続けばいいと思っていたザボエラに。そのためなら誰にも省みられることなく、何でもやり、やろうとしたザボエラに……立派に死んだザボエラに………」
 私はヒュンケルが好き。及川くんが好き。あと最近ハマってるのは史群アル仙、ドーワッツチョコ&クランチ。掃除をして、マンガも捨てなきゃ。