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死、もしくは横入りの世界

創作

 武男は郊外のアウトレットに向かって、高速道路を北へ快調に飛ばしていた。昨年、武男が所有するミニバンは、優秀なミニバンに贈られる賞のひとつをみごと獲得している。その車内、助手席の妻はスマートフォンで目当てのワンピースに関する情報を根気よく検索しつづけ、後部座席の娘は、うつぶせと横むきの中間、ちょうどお姫様のような体勢でねむっていた。
 わざわざ休日、車を出してまでアウトレットに向かうのは、妻と娘に背中を押されたからである。武男は家族を心から愛していた。これといった趣味もなく、NPO団体の幹部職員として年収600万円を稼ぎ出す武男のこと、器量にめぐまれた妻が品よく着かざって近所の目にふれることや、五年生になった娘が小学校の一学年や一クラス、そんな取るに足らないせまい世界とはいえ、大人びた服飾によってある程度の地位を万全にすることにやぶさかではない。
 武男の哲学によれば、自信とは、成功体験をくり返すことで積み上がっていく石垣のようなものではなかった。自信とは、下手を打たずに長い期間を過ごすことで、その土壌からしみ出してくるわき水のようなものである。そのためには、何においても、問題を遠ざけておくことこそ、最上のライフスタイルであると、武男は信じて疑わなかった。家族のファッションで言えば、浮世離れした「上の上」には問題がある。「下の下」にも当然、さらに「中の下」も蔑視をさけられないだろう。ならば、「中の中」でいいかといえば、そうもいかない。いつ何の弾みで「下」の方面へ転がり落ちるかわかったものではない。「中の上」でもまだ不安がある。「上の中」までいけば、「上の上」の問題が顔をのぞかせるので、これも不適当。結果、武男が導き出した答えが、「上の下」であった。
 そんな武男だから、休日を返上して、家族のショッピングのために運転手役を買って出ることなど、お安いご用だった。武男自身、それが父親のあるべき姿だと考えていた。
 しかし、一つだけ気がかり事があった。ミニバンである。武男はもう一台、上のクラスのセダンを所有してはいた。普段、マンションの駐車場にミニバンと並べてとめてある。しかし、デイリーユースではないことがたたり、あろうことか車検が切れていた。問題を遠ざけておくことを信条とする武男に、あってはならないミスであった。妻がこうしたことに無頓着なことも災いした。
 大型バスやトラックにミニバンの姿が映し出されると、ミニバンで遠出しているという事実が、武男の胸をしめつけた。たまたま重量級のトラックに挟まれた瞬間など、このまま両脇から押しつぶされてしまうのではないかと考えた。そして、ふたたび離れたトラックのコンテナに、車に乗った家族の笑顔のイラストが完成する。そんな情景を思い浮かべながら、武男は無表情で運転していた。
「どういうわけだ。全然空いていないじゃないか……」
 アウトレットの広大な駐車場をぐるぐるまわりながら武男は言った。駐車場には車がひしめいて止まっており、何本も通路をめぐっても、まったく空きが見つからない。妻と娘も目的地へ着いた喜びをにじませたまま、左右を見まわしているが、無駄だった。
 五分近く、居並ぶ車の前をゆっくりと走った。しかし、まだ午前中ということもあり、出て行く車もまばらだ。よしんば空きが出たとしても、多くの車が同じように徘徊しており、すぐに埋まってしまうだろう。徐行する多くの車は、ランダムでエサが出現する出口のない迷路に入れられ覇気をなくしたネズミのようだった。
「こいつは弱ったな……」
 武男が弱音を吐いたその時、娘が声をあげた。
「パパ、あそこ!」
 指さす方向は途方もなく自動車が並んでいるだけに見えた。
「ほら、あそこあそこ!」
 自分の顔のすぐ横に伸ばされた指先の方へ武男が目をこらすと、一台だけ、ボンネットが他よりはっきり目に入る白い車が確認できた。その手前に、確かに、一台分のスペースがあった。武男の胸に爽やかな元気がわき上がった。
「よし」
 思わず声をあげ、アクセルを踏みこむ武男。やったやったと無邪気に尻で飛びはねる娘を誇りに思った。妻も嬉しそうで、このようなささやかな幸福が、自分の人生を鮮やかに彩っていくことだろうと武男には思われた。
 優雅に収穫物を眺めるように、駐車スペースを一旦通り越し、ギアをバックに入れた時だった。全く突然、事故すれすれのタイミングで、鮮やかなマセラティ・レッドが武男のミニバンのサイドミラーを横切った。
 それはまさに青天の霹靂だった。「あっ」と武男は思わず声をあげた。
 振り向くと、駐車スペースにはすでに、深紅のクラシックカーが前向き駐車でおさまっていた。マセラティ200SI。武男には、その巨大なヘッドライトだけがよく見えた。
「パパ、マチャアキだよ! マチャアキが横入りした!」
 膝立ちして後ろを見ている娘が叫んで知らせた。
 堺正章は、エンジンを切った瞬間、ドアを開けて出た。オープンカーだから煩わしいロックなどはまったく必要ない。堺正章には何の遠慮も迷いもなかった。髪型はオールバックで、武男のミニバンの背後を堂々と通り抜けた。
 武男はその小さな姿を、鬼の形相で、バックミラーの中に見送った。振り向くと、背丈の小さい堺正章は、他の車に隠れてもう見えなかった。
「あの野郎、ふざけやがって」
「ずるい、何なのアイツ! 最悪!」
 娘の金切り声を聞きながら、武男はすぐさま車を発進させた。問題からはすぐに遠ざからねばならないという武男の野生の本能がそうさせたのだろうか。どぎつい赤色はすぐに見えなくなった。
「最低ね、マチャアキって。ああいうとこ見ちゃうと、ホント見損なう。もともと全然好きじゃないけど。なんかテレビで見ててもイヤな感じしてたのよ。ソレが本当に、ああいう卑劣なことして、ふてぶてしくして。だから、イメージ通りっていうか、私の勘もけっこう冴えてると思わない? まあでも、芸能人ってみんな、ああいう人が多いのかもね。その中でもかなり最悪に近い方だと思うけど、結局、苦労しないで自分の思い通りにいってる人たちって、それを当たり前に思ってるじゃない? 自分たちは特別だって意識がどっかにあるのよ。それぐらい図太くなきゃやっていけないのかもしれないけど、人間、あんな風になっちゃおしまいよね。それにマチャアキって、確か二回ぐらい離婚してるでしょ。それで、今、すごい若い、二〇歳ぐらい下の奥さんもらって、ホント、好き勝手やって気分良く生きることしか考えてないのよ。ああいう方々飛び回って生き生きした老人見るのって、わたし、ほんとダメ。ああなるんなら、さっさと死んだ方が絶対マシ。ホント、見事な生き恥よ。いくら良い車持ってようが、多趣味だろうがさ、隠し芸だかなんだか知らないけど、そういう一つ一つを他の人間ぜんぶ蹴落としてバカにしてやってきた浅ましい奴に、芸能界での地位に値するかどうか以前に人間として生きる資格なんかあるわけがないのよ。ダウンタウンDXに投稿してやろうかしら」
 妻が話し続ける間も、武男は車を動かし続けた。もう、到着してから二〇分ほど経過していた。妻と娘を先に下ろした方がいいのかもしれない。むしろ、武男には、二人がそれを提案しないことが不思議だった。
 三分ほど徘徊し、今度は武男が駐車スペースを見つけた。
「よし、やっとだ。これで、気分を直して買い物ができるというわけだ」
 堺正章の一件に遠慮して、武男は喜びよりも安堵をにじませた。やっと解放された。それが偽ることのない正直な気持ちだった。
「ほんとだ、パパ、ナイス!」
 娘が無邪気に張り上げる声が、活力剤のように耳に入ってきた。こんな風に、娘には何度も助けられた。それに比べて、自分は娘に何をしてやれているだろう。しみじみとした気持ちで、武男はギアをバックに入れた。
 その時だった。サイドミラーに、またしても、まばゆいほどの赤色がひらめいた。
「あっ!」と娘が声をあげた。
 二度までも、武男が駐車しようとした場所に、見覚えのあるマセラティ200SIがおさまっていた。
「またマチャアキだよ! またマチャアキが横入りした!」
 娘がどんなに、今まで聞いたこともないほど叫んでも、武男には信じられなかった。堺正章は、先ほど確かに、駐車を済ませていたのではなかっただろうか。しかし、振り返って見ると堺正章がそこにいた。車外へ出て、オールバックの髪型も健在で、またアウトレットの方角へ歩いて行く。武男はこの時はじめて堺正章を、鏡越しでなく、生で見たのだった。しかし、それはやはり、サイドミラーの中で見た光景と変わり映えするものではなかった。それが武男をいっそう混乱させた。
「どうして……」
 武男は呆然として言った。
 すると、妻が、武男の肩を恐るべき力でつかみ、揺すぶって言った。
「ねえ、隣の車が、スライドドアだからじゃない? 車に傷つけられたくないから、場所を変えたのよ!」
 見ると、確かに両隣の車がスライドドアのように見受けられる。それでもなお、武男には信じられなかった。悪い夢を見ているようだ。芸能人と関われば、十中八九、喪失感のようなものが襲ってくる。どんな芸能人のはしくれ相手だとしてもそうなのだから、一部からは「巨匠」と呼ばれるほどの堺正章クラスの芸能人に遭遇したとあれば、その喪失感は計り知れない。
「でも、そんなことで、わざわざ場所を変えるか……?」
「そうに決まってるじゃない! ああいう、趣味に突っ走った人間ならやりかねないわよ! なんであんな奴がのうのうと生きてるんだろ!」
 興奮気味の妻になおも激しく揺さぶられながら、武男はアクセルを踏み込んだ。一刻も早く、こんなところからおさらばしたい。もうこのまま、家の近辺で外食でもして、帰ってしまおうか。買い物をしなかった分、少し奮発してじゃんじゃん注文する。「また来よう」「いや、とてもじゃないが来られない、今日は特別なのだから……」と情けない声を発する自分を想像した。そんな余計なことを考えていたせいで、前方への注意がおろそかになった。
 最高にごきげんな黄色い服を着たゴールデンレトリーバーが飛び出してきたことに武男はまったく気づかなかった。常日頃から、動物を轢くことに関してナーバスになり、眠れぬ夜を過ごしたこともある武男には、悪夢のような瞬間だった。
 衝突の音。娘の声にもならぬ声。それが終われば全くの静寂が過剰に返ってきた。
 3メートルほど飛んだレトリーバーは、道路の上に舌を出して動かない。その一帯はとりわけ派手な色をした車が多かった。献花のように並んだ鉄の塊に挟まれ、コンクリート舗装された鼠色の中央、黄色い衣に身を包んだ犬が白っぽい舌を出して横たわる。それは美大生が描く絵画のように空々しい情景だった。
 凶突に倒れた気の毒な犬を、武男は汚れたガラス越しに見下ろした。家族同然に愛しているペットのピンチに、飼い主はいったい何をしているのだろう。今日はとことんついていないらしい。このミニバンは呪われているにちがいないと、武男は柄にもないことを思った。
「歌穂、降りて」
「えっ」
「いいから手伝って」
 言った妻はもう外に出ていた。涼しげな風が流れこんだ。妻がゴールデンレトリーバーに駆け寄り、体の下に手を入れるのを武男は見た。そばに寄った娘が、見ているだけでそれとわかる強い口調で指示を出され、後ろ足の方に回った。
 二人はぐったりした犬を抱えて車の方までやって来たが、そのまま通り過ぎた。武男はバックするときの体勢で二人に視線を走らせた。
 犬は、何の疑問もなしに、堺正章の、血の赤を通り越してなお赤い、朗らかなクラシックカーまで運ばれた。まだ生きていた頃の温かみを99%以上残しているにちがいない誰かの愛犬は、武男の妻と娘によって、むき出しの車内に投げ棄てられた。
 そろった後ろ足が見えなくなるのは、武男には困り果ててしまうような瞬間だった。この世にありふれているのは死、もしくは横入り。それに家族一丸となって立ち向かっていこうという、新婚の時代、娘が生まれたばかりの頃のような気持ちには、到底なれはしない。