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リア・マニオンの台所糞便学(キッチン・スカトロジー) (前編)

創作

 彼女たちの最近の土曜の午前と言えば、西館裏のコートでテニスと相場が決まっていた。実際、日も傾きかけて陽明寺通りを北上し、スーパーの袋を両手にぶら下げてアメリカ人留学生リア・マニオンの部屋に向かう時、ヨネックス・ラケットのグリップゴムの芳香を手にまとっていない者は誰一人としていなかった。そのせいで、5人連れだって歩いて行く彼女たちは本当のバカに見えた。
 リア・マニオンの部屋はかなり豪奢なもので、一人暮らしながら2LDKの広さがある。キッチンはアイランド式で、ゴールデンレトリーバーが入りそうなオーブンまで備え付けられていた。彼女らは前日からそいつでピザを焼くことに決めて、買い出しを済ませてきたのだった。
 島の一角で佐野チヒロはタマネギの皮をむきながら、後ろで突っ立っている田中ヤヨイの方を振り向いた。「ヤヨイ、あのさ……」とチヒロは訊いた。
「え?」田中ヤヨイは、チヒロが落としたタマネギの皮をせわしなく手の中へ重ねていたが、チヒロと目が合いぴたりと動きを止めた。乾いた皮のこすれる音をたてながら、口元に手をもってきて、何か伝えたい風に顔を動かした。「佐野ちゃんのラケットのカバー、忘れてきた!」とヤヨイは情けない声を上げた。
「いいよ、あたしが見つけて持ってきたから」とチヒロは言った。「それよりもさ……」
「ああよかった! さすが佐野ちゃん、ありがと!」
「でさ」チヒロはヤヨイの感謝に用はなかった。
「何?」
「あたし、今日もまたうやむやにされるのは、イヤだからね」
「何が?」
 チヒロの手元に力がこもったせいで、タマネギの半分透き通った白い身の一部が、皮とともに欠けて剥がれた。「お金よ。さっき、スーパーで立て替えたでしょ」とチヒロは言った。「あたし、リアみたいな生活してるんじゃないのよ」
 ヤヨイは驚いて口を開けたが、だんだん閉じて悲しげな表情に変わっていった。「あたし、今日は急にゼミ合宿のお金出して小銭しかなかったから。バイト代出るし、20日になったら大丈夫だよ。あたし、いつもそうしてない?」と言う頃には無邪気な笑顔を浮かべていた。
「してない」とチヒロはきっぱり言った。「軽井沢に行った時だって、ホテルの中でジュース飲んだり岩盤浴したりなんだかんだのお金、全部あたしが立て替えて、返すって言ってそのままよ。こんなことガタガタ言うのイヤなんだけど、あたしだって結構やりくりきつくて――」
「でもあたし、いつも車を出してるでしょ?」
 チヒロはときどきヤヨイを殺してやりたくなった。「それはあんたの彼氏の車を貸してもらえるからでしょ?」と彼女は言った。「大体、あたしもきっちりガソリン代は出してるのに? あんた、ガソリン代出してないでしょ?」
「だって、それはあたしが頼んで貸してもらった彼氏の車だから。電車で行くよりうんと安上がりだからって、みんなで話し合ってそうしたじゃない」
「そうよ?」とチヒロは会話の優位を断固譲らぬと声のボリュームを上げた。もうタマネギの皮を拾おうともしないで、手の中に入れたものをいじっているだけのヤヨイを彼女はわずかのあいだ眺めた。「要は、車のことは支払いが済んでるってことでしょ。なのに、なんでそれを持ち出すわけ? それに、運転してるのは大体あたしかメグ――」
「わかった、わかったよ。佐野ちゃん」とヤヨイは声をひそめた。そして、ちょうど島の対角線上にいる、他の3人の方をちらりと見た。相手に示すように。「いま、家に4000円はあるの。それで足りる?」
「足りない。半分にもいってない。そこまできっちり払えなんて言いたくないけど、あたし毎回ちゃんと計算――」
「彼氏にもらう。月曜、体育のときに持っていくよ。だから大丈夫。ケンカするかもしれないけど、佐野ちゃんには関係ないから。それでいい?」と言って、ヤヨイはタマネギの皮を改めて揉みしだき、ガサガサさせた。
 その態度は、我が身の情けなさを嘆くような表情とは裏腹に、およそ寛容な対応を誘うものではなかった。
「ダメよ」とチヒロは言った。「あたし、明日、代引で荷物届くの。今日中にほしいのよ。スーパーでも言ったでしょ?」
「何、頼んだの?」
「なんでもいいでしょ」とチヒロは言った。そして、タマネギを胸元まで持ち上げて、台の上に散乱したタマネギの皮を示した。「拾うなら拾ってよ」
 ヤヨイは返事せず、そこに手をのばした。先ほどまでの一枚一枚拾っていく花を摘むような手つきとは打って変わって、強ばらせた手でかさばる皮を一ヶ所に集める手つきはかなり力がこもっていた。
 その時、キッチンに甲高い声が響いた。吉岡メグミが体を折って、驚きと笑いに満ちた顔で隣のリアを見上げていた。
「どうしたの?」とヤヨイが言った。
「ちょっと聞いてよ!」とメグミが金切り声を上げた。「リアがヤバいこと言ってる!」
「何、何、何?」とチヒロはヤヨイの奥から笑顔を浮かべて言った。彼女の機嫌は、かなり対象をもって現れるようなところがある。「何?」
 リア・マニオンの手はサラミの脂で汚れているらしく、指を下向きに開いて空中に落ち着けたまま、にこやかに笑っていた。長身の、腰のふくらみがほとんど無い体型をしていて、身体の中で飛び抜けて美しいと言えるパーツである柔らかいブロンドを後ろで結んでいた。全体に整っている造形は別にしても、その明敏そうな面積の小さい顔において、めっぽう印象的な女性だった。
「リア、かなりのスカトロ趣味なのよ」とメグミの隣の東エイコが、半笑いで言った。
「スカトロ?」とヤヨイが言った。「あのスカトロ? ウンチとか食べる?」
「なんだってさ!」とメグミは台の上に肘をついた。
 チヒロとヤヨイは思わず顔を見合わせた。ただしそこには、口をあんぐり開けて見せ合うような親しさはなく、見開いた目だけが驚きを示していた。
 リア・マニオンが英語で何か言った。いつものように帰国子女のエイコが通訳しようとしたが、彼女は明らかなためらいの表情を見せた。エイコはリアに向かって眉をひそめて何か言い、リアは"Sure"と頷いた。
 チヒロは二人を怪訝な顔で見ていた。「なによ?」と彼女は言った。「なんて言ったわけ?」
「ごめんごめん」とエイコは言った。「あのね、リア、ピザの一部をスカトロにしないかって言ってるの」
「は?」
 リアは相変わらず微笑みを浮かべたまま、エイコに耳打ちした。エイコは引きつった笑顔で、今度はすぐさま言った。「クアトロの一つをスカトロにしないか、だって」
 先ほどまで馬鹿笑いしていたメグミはぽかんとしてエイコを見ていた。チヒロとエイコも同じだった。それでも3人は、十全に打ち解けているとは言えない留学生を前に、好意的な笑顔を差し向ける準備を怠ってはいないようだった。
「何よ、それ。冗談? アメリカンジョーク?」とチヒロは言った。「夕飯なのよ?」
「リアは本気で言ってるの?」とヤヨイも訊ねた。
 エイコは少しのあいだ言い返すのを控えた。ほんの少しのあいだ。「たぶん本気」とエイコは首をかしげて言った。「テッド・バウケットにレイプされた話も本当だったから」
「レイプされたの? リアが?」ヤヨイは驚いて言った。彼女だけがリアを凝視した。
 リアは日本語的に発音された名前とレイプの語によってエイコの発言を了解したらしく、指を広げたまま胸を隠すようにかざし、おどけるような顔をした。
「けっこう、なんでもアリなのよ、彼女」その言い方には――もちろんこれは先ほどからだが――相当にアメリカナイズされたものがあった。
 メグミは相変わらず肘をついて、台すれすれに顔を置きながらエイコを見上げていた。「で、それをなんでうちらに勧めるの?」と彼女は言った。「手近なお友達を発掘したいとか?」
「さあね」とエイコは言い、リア・マニオンに小声で話しかけた。リアは生真面目で意志の強そうな顔をまっすぐエイコに向けて話した。
 チヒロは冷たい目で二人を見つめていた。彼女は手近に置いた大きなスライサーに何度か触れた。それを使うには、タマネギの根と先端を切り落とさなければならない。この家唯一のライムグリーンのカッティングボードは、エイコの手元で、半分に切られたサラミの下に敷いてあった。しかし、もはやそんなことはどうでもよくなろうとしていた。「まさか、エイコもそういう趣味じゃないわよね?」とチヒロは訊いた。
 エイコは話を中断してチヒロを見た。「やめてよ」と彼女は言った。「で、別に普通のことだって言ってるわよ。『肛門期における欲求の自己抑制による性欲の逆説的萌芽』は一般的なものだから、誰しもそのセンスを秘めてるって。それから、私のことをもっとよく知ってほしいって」
「それ、英語で何て言ったのよ?」とメグミはちょっとくたびれた風に笑って言って頭を音を立ててバリバリ掻いた。
 エイコがフロイト的センテンスを繰り返しそうになる前に、チヒロは咳払いを打った。「別にあたしはいいわよ」と彼女は言った。