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本当は恐い職業体験

「丸山、きょうの放課後、校長室に来い」
 壇ノ浦先生からそう言われたオレだったが、校長室の場所がわからず、掃除のおばさんに聞くことになった。おばさんが何も言わずに歩き出したのでついて行くと、図書室を通る最短ルートで校長室に着いた。ノックして中に入ると、掃除のおばさんもついてきたのでびっくりした。そこに野村先生と校長先生と掃除のおばさんがいたのでまたびっくりした。校長室にもともといた方の掃除のおばさんは出て行った。掃除のおばさんが入れかわったということを確認し、自分に向かって、落ち着けと言った。
 重厚感のあるテーブルをはさんで向かい合ったふかふかソファに2対2で腰かけたが、掃除のおばさんは一つだけある一人用ふかふかソファに移動してしまった。オレの真正面に座った壇ノ浦先生は、プリントに目を落としながら、険しい顔つきで言った。
「丸山、こんどの職業体験だけどな」
「はい」
「希望先がタンパベイ・デビルレイズで提出されてるけど、これ、本気か?」
「はい、他にいいのなさそうだったんで」
「でも、お前、野球経験ないだろ?」
「これ、野球なんですか?」
「そうだよ、メジャーリーグのチームだ。知らなかったのか」
「バーじゃなくて?」
「バーじゃない。だいたい中学生だからバーもダメだ。あのな、驚くかもしれないが、デビルレイズに職業体験するって言っても、事務をするとかじゃなくて、アメリカに行って、本当に試合に出るんだ。プリントに書いてただろ。だから、野球経験のないお前にはムリなんだ」
「確かにオレは野球経験ないですけど、みんなもパン屋とか本屋の経験とかないのに選んでるじゃないですか。職業体験ってそういうものなんじゃないですか。それに、もしかしたら向いてるかも。打てるかも」
「打てないよ。パン屋や本屋はともかく、向いてる向いてないじゃないだろ、野球選手は」
「向いてることを証明するために絶対打ってみせます」
「そんな気持ちで打つんじゃない。相手は、お前、メジャーリーガーだからな? そもそも見たことあんのか?」
「まあ、とんねるずのスポーツの番組とかで時々」
「それ引退した選手とかだろ。太っちゃってさ。現役の、しかもお遊びじゃない本気の選手はあんなもんじゃないよお前。もっとでかくて速くてすごい」
「え、じゃあホンジャマカの石塚ぐらいでかい…?」
「いや、ぜんぜん、でかさで言ったらそれ以上だよ。だいたいそのとんねるずの番組の選手だってホンジャマカの石塚よりでかくなかったか? たぶんその番組、先生も見たけど、相当でかかっただろ? 現役のメジャーリーガーなんて、トップレベルのアスリートで、でかい選手は筋肉のバケモノだからな。ボブ・サップぐらいあるからな」
ボブ・サップホンジャマカの石塚より小さいじゃないですか」
「え…? いや、小さくないだろ…? たぶん、うん、小さくないよ。ボブ・サップの方が大きいと思う。ていうかぜったい大きいよ。大きい大きい」
ボブ・サップはリングの四隅におさまってましたし」
ホンジャマカの石塚だっておさまるだろ!?」
「いや、見たことないんで…ボブ・サップはよく見るけど、ホンジャマカの石塚は誰もそういうのを試したことなくて…試さないってことは、テレビ関係者もみんな無理だって思ってて、それでやらないのかも」
「そんなことはないよ、頭おかしいのか!」
「こんなに芸歴長くて、そういうシーン見たことないのって、それこそおかしいですし」
「それは仕事のタイプにもよるし、お前が見たことないだけで、リングの四隅におさまってたこともあるだろうし。ていうか、実際にそんなこともあったような気がするぞ。赤いグローブはめて。ていうか、そんなこと言ったらメジャーリーガーだってリングのコーナーにいないだろ?」
「だって、メジャーリーガーはバッターボックスにおさまってるじゃないですか」
「いや、だから…!」
「もし本当だったとしたらちょっと逆に見てみたいですけどね。ホンジャマカの石塚より大きい人間なんてのが現実にいるとしたら…」
ホンジャマカの石塚をなんだと思ってるんだよ。その感覚で言うんだったら、メジャーリーガーはヒグマ…いや、もう思いきってゾウぐらいの感じだからな」
「じゃあ、もう少しでホンジャマカの石塚ぐらいの大きさですね…」
「なんでだよ、石塚は普通に肉まんとか手でつかんで食べてるだろ!  ヒグマからゾウに変えて言いすぎたと思ったのが恥ずかしいよ」
「いや、オレ小さい頃にホンジャマカの石塚を生で見たことあるんですけど…ホントにすごかったんですよ。そのへんがぜんぶ日陰になって…飛行船かと思いました……」
「もう言いたい放題だな! あのな、ほんと、客観的に見たら、メジャーリーガーと比べたらホンジャマカの石塚なんて、ほんと全然、比べものになんないんだからな。百歩譲って大きさが一緒ぐらいだとしても、スポーツで鍛えた体だから、質もぜんぜんちがうし」
「うーん、でもホンジャマカの石塚は日本のプロ野球選手とかにもエアホッケーでけっこう勝ってたし、日本の選手もメジャーリーグでけっこう通用してますよね? じゃあ、日本のプロ野球選手と互角以上に渡り合ってたホンジャマカ石塚は少なくともメジャーレベルにはあると言えるんじゃ…?」
「言えないよ! そしたら、恵の方はメジャートップレベルってことになっちゃうだろ!」
「恵のガタイで通用しますかね…?」
「するよ、エアホッケーだったら! うるせーな! 石塚も通用するけど、そもそもやるのはエアホッケーじゃなくて野球なんだよ! だから両方とも通用しないんだよ! なんだこの話!」
「でもホンジャマカの石塚は横浜ファンで野球好きだし、恵より可能性は高いかも……」
「わかったわかった! わかったよ丸山。どうしてもホンジャマカの石塚をメジャーリーガーにしたいらしいが、もうそれでいい。ただ落ち着いて考えてみろ。もし職業体験に行くことになったら、ホンジャマカの石塚みたいな奴がゴロゴロいる中で野球をすることになるんだぞ。そんな過酷なことがお前にできるのか」
「オレのホンジャマカ石塚への執着を逆手にとってきましたね」
「うるさい! 絶対お前にはデビルレイズの職業体験に行かせないからな! どうせパスポートも持ってないだろ!」
「残念。オレは先生の必死さを見て、逆にメジャーの世界を職業体験してみたいという気持ちがふつふつと沸いてきてますよ。これこそ職業体験の醍醐味じゃないですか。誰もオレをとめられません。パスポートつくります。どこに行けばいいんですかね…?」
「ぐぐぐ…」
「それでもう一つ質問なんですが、なんでそんなにオレがデビルレイズに職業体験に行くのを邪魔しようとするんですか? だいたい、メジャーリーグデビルレイズが職業体験の候補に入っているかも意味がわからないし、これには何か裏があるとしか思えないですよ」
 壇ノ浦先生は、校長先生をチラリと見た。校長先生はコクリとうなずいただけで、いまだに一言も喋らない。誰も、一度も声を聞いたことがない。掃除のおばさんも黙っていた。こちらも声を聞いたことがない。でもそれはまあまあわかる。掃除のおばさんだから。
「わかった、丸山くん」と壇ノ浦先生は神妙な顔つきで言った。「率直に言おう。君、いくらほしい……?」
「500円」
「いや待て待て、ビックリした。即答するんじゃない。今欲しいと思ってる漠然とした金額みたいな、そういうことじゃないんだ。ごめんごめん」
「ん?」
「いくらお金を出したら、職業体験の希望を変えてくれるかということを言いたいんだ」
「つまり…?」
「もう全部言ったようなもんだが、君はホンジャマカの石塚の話以外ではまったく頭が回らないのか…? 仕方ないから、一から細かく説明してあげよう」
ホンジャマカの石塚に何かあったんですか…?」
「ちがうちがう。不安な表情を浮かべるな、無事だ。君の同級生の石塚くんが、メジャーリーグを含めたプロのスカウトからも注目を浴びるほどの存在なのは、知っているね…?」
「ややこしいですけど、はい」
「そこはわかるのか。ややこしいな」
「わかります。ややこしいですか?」
「いや、すまない。続けよう。で、石塚くんの獲得に特に熱心なのがヤンキースの恵スカウトなんだが、そこへ、同じリーグの同じ東地区で敵対するデビルレイズの三村スカウトが話を我が校に持ちかけてきたんだよ」
「更なるややこしさを覚悟したところで、逆にグッとわかりやすくなりましたね」
「三村スカウトのデビルレイズとしては、石塚くんとのパイプをできるだけ太くしておきたかったんだ。志望チームを決めるのは、特に高校生の場合、親御さんも含めて『義理人情』が大きく影響するものだからね。しかし、日本の高校生に過剰な接触をすることは禁じられている。そこで目を付けたのが職業体験のシステムだ。『そんないいのあるのかよ!』と三村スカウトは言った」
「学校の職業体験にそんな黒い陰謀が隠されていたとは…」
「つまり、職業体験の名目でチームに合流させ、デビルレイズに所属していたという既成事実をつくれば、事はかなり有利に運ぶ。しかも、職業を体験させなければいけないので、教育の一環としておおっぴらにメジャーの打席に立たせることができるんだ。その舞台を味わえば、石塚くんも心を決めるにちがいないからね」
「な、なんてこった……アメリカ人の大人、きたなすぎる!」
「しかしまあ、金にものをいわせれば何でもできると思っているヤンキースのような球団にはできない芸当だよ。石塚くんを職業体験に行かせることができれば、デビルレイズは我が校に1億円払ってくれることになっている」
「い、1億!!」
「驚いたかね。メジャー球団にとっては、将来のスターを獲得できるならこんなものははした金だよ。もちろん、我が校にとってはそうではないがね。しかし、ここで問題がおこった」
「この一分の隙もない計画に何か問題が……?」
「石塚くんが、職業体験の場所に、商店街の本屋さんを志望してきた」
「い、石塚の野郎、人の気も知らないで! 野球だけやってりゃいいのに!」
「あわてたデビルレイズ陣営が総出で嗅ぎまわったところ、気になる女の子と話すきっかけをつかみたいからという理由らしい」
「ハッ、じゃあ最近、全クラスに一人ずつ、スピードガン持って半袖のポロシャツ着た大人びた留学生がやってきたのって…?」
「そう、クラスに溶けこみ石塚くんの動向をさぐるためだ。せっかくみんなと仲よくなれたのに、彼らが『ジェネレーション・ギャップがすごいから』という理由で一斉に不登校になってLINEもやめたのは、もう真相がわかったからだ。むろん、実際にジェネレーション・ギャップはすごかったようだがね」
「アメリカ人の大人、きたなすぎる! おれたちはどこまで大人の手のひらの上で踊らされているんだ…!」
「正直言って、君たちがどうがんばろうと、汗をかかない部分まで全部いっぱいいっぱいに使って、大人の手のひらの上なんだ」
「そんなの、ほとんど手の甲側じゃないか…」
「そうだ、君たちは手の甲側の毛が生えてる部分のすれすれまで大人の手の…細かいことはいい。結果的に、デビルレイズ行きを志望したのは、野球にも金にも何の関係もない君だけだったというわけだ。頼む、考え直してくれないか。金ならいくらでも積もう」
 オレは実のところ、大人のド汚い話を聞いただけで疲労困憊となっていた。いつの間にかソファに深くしずみこみ、顔だけ出している状態になっていたのだ。とはいえ、そこにいる全員が、こちらはおそらくある種のやましさから、同じ状態になっていた。
「何万円ほしいか言ってみたまえ」
「うう、先生め、うう」
 おれは見透かされていた。1億のうちの何万円かぽっちで生活が激変してしまう子供であるということを。そうだ、オレは正直、8万ぐらいほしい。それであとで追加で時々3万ぐらいくれたら、心の底から感謝してしまうだろう。酒も飲まないのに高額のおつまみを買うようになり、そればっか食べているだろう。
「一晩だけ、考えさせて下さい……」
 なんとかそう言うと、オレは今までの人生でケンタッキーフライドチキンから得てきた全カロリーを脳の前方に上昇デジタル表示させ、何だってできそうな感じを脳に刷りこむことで湧いてきた力を、ソファから出るためにつぎこんだ。からだの節々が痛い。ユンケルが飲みたい。8万もらえるし、いいじゃないの。校長室を出るところで、まだ埋まっている先生へ振り向いて言った。
ホンジャマカの石塚の話、ほんとムダでしたね…すみませんでした」
「いや、なかなか楽しかったよ。それから今後、君が人生をもっと注意深く歩めるように一つだけ教えておこう。ホンジャマカの恵も野球好きだ」
 あのとき(ホンジャマカの石塚の話をしていたとき)は、オレが先生をきりきり舞いさせていると思って実は調子に乗っていたのに、本当はぜんぜん違っていた。オレは先生の手の甲のはじっこに生えてる毛の目の前でおどっているピエロだった。大人は汚い。汚いけれど、オレも、オレたちも、同じくらい相当におめでたいじゃないか。オレは家に帰ると、少し本を読んで、この世のぬかるみの中で泥のように眠った。
 翌日、掃除のおばさんが週刊誌に全てリークして、野村先生と校長先生とデビルレイズの関係者が全員逮捕された。
 報道陣がどこか嬉しそうに詰めかけて、学校中を取り囲み、下校する生徒に片っ端から話しかける。学校からのお達しを守って足早に立ち去る生徒たちの中で、オレは素直にカメラの前で立ち止まった。大人たちがめちゃくちゃ寄ってきた。
「なんていうか、自分の学校でこんなことが起こるなんてすごくびっくりしたし、こわいです。アメリカの大人、汚すぎる!」
 大声をあげながら、手の中に、下駄箱に入っていた500円玉を握りしめていた。取材が終わる頃には手のひらにめりこみ、「500」の刻印だけがうっすらと浮き出ていた。もう二度と取り出せないということが、オレにははっきりとわかった。