物思う人によせて(ゼッタイお前のことじゃない)

  

 

 大江健三郎綿矢りさに贈ったとかいう大野晋の『古典基礎語事典』「ながむ」の項にこうある。

ながむ

長い時間じっとひと所に目をやっている意。庭などを関心をもって凝視するのではなく、長時間にわたって一方向に視線を放ったままで、実際にはそのとき視野にない人や物事を思い浮かべるところから、場合によっては、視覚的な要素はまったくなく、直接にもの思いする意を表した。

 実際にはそのとき視野にない人や物事を思い浮かべる時は、長時間にわたって一方向に視線を放ったままであることから、物思いにふけるという意を表すようになったというのは、なんだか実にいい感じではないでしょか。
 物思いにふけるということはみんなやっていて人間観察や妄想ぐらい誰もがやっている。情けないとは思わないのか、と誰にともなく思っている。
 『ワインズバーグ・オハイオ』にはその名もまさに「物思う人」という短編が入っていて、この短編が輝いて見えるのは、だから物思うなんてみんなのべつ幕なしやっているわけだし、この連作短編小説集だって物思いの見本帳の様相を呈しているのだけれど、この「物思う人」に描かれたセスこそが、より厳密な意味で物思いにふけり、散っていくといううすのろぶりを発揮しているからだということに尽きる。

 セスは一応、ワインズバーグでは祖父の代から採石場主として知られた名家の出だけれど、醜聞がきっかけとなった口論の果てに父が殺され(父の方が先に発砲したという)、遺された金も父が関わっていた投機や投資で使い果たされていた。そんな母子家庭で、これだけは遺された――かつての町の名所であった――大きな家で、彼は育ったということだ。

セスは何台もの馬車に乗った苺つみ人夫たち――それは少年、少女や大人の女たちだった――が朝畑に出かけ、夕方になると土埃にまみれて帰って来るのをよく見かけた。馬車から馬車へ大声で下品な冗談をあびせあうそのおしゃべりな集団は時折ひどく彼の神経を苛立たせることがあった。彼は自分も、けたたましい笑い声をたてたり、くだらない冗談を大声に叫んだり、道路を行ったり来たりする、その絶えることを知らない動き、笑いさざめく活動の流れに、身を投じることができたら、どんなによいだろうかと思った。

 彼は最初の段落で早くも「ながめ」ている。
 こんなセスはヘレン・ホワイトという銀行家の娘に恋し、ヘレンもまたセスに恋している。恋というよりか、それはまだ淡い始まりめいたものだが、そんなある日、セスはジョージ・ウィラードにこんな提案を持ちかけられる。
 ジョージ・ウィラードは新聞社勤めで、末は作家かとワインズバーグで一目置かれている人物だ。セスより年上である。

「今、恋愛小説を書こうとしていたんだ」と彼は説明して、神経質そうな笑い方をした。そして、パイプに火をつけると、部屋のなかを行ったり来たりしはじめた。「ぼくは自分がこれから何をしようとしているか、わかっているつもりだ。恋をしようと思うんだよ。この部屋に坐ってそのことを考えに考えたあげく、そうすることにきめたんだ」
 自分の思いきった言葉に戸惑ったのか、ジョージは窓際に寄ると、友達に背を向けたまま身を乗り出した。
「ぼくが誰に恋しようとしているかもわかっている」彼の声は上ずっていた。「相手はヘレン・ホワイトなんだ。町の娘で多少とも見ばのいいのはあの子ぐらいのもんだからな」
 そのとき思いがけない新しい考えがわいてきたので、ウィラード青年は振りかえって訪問者に歩み寄った。「なあ、おい」と、彼はいった。「ヘレン・ホワイトとは、きみのほうがぼくより近しい。きみから、今ぼくのいったことを、彼女に伝えてくれないかね。さりげなく話しかけて、ぼくが彼女に恋している、といってくれればいいんだ。それにたいして彼女が何というか、どうそれを受けとるか、そこを見とどけた上で、帰ってきて教えてほしい」

 ここではっきりしているのは、今、ジョージ・ウィラードは「物思う人」ではないということだ。彼は事実つまり<現在>を最上としてこの時間を生きている。<未来>を見るときでさえ、<現在>のように見るのであり、そこにセスのするような怨嗟も逡巡も見られない。
 セスはジョージへの反発と、彼に対する自分の無口への反発で悪態をつき、「やけくそな気持ち」で出て行く。
 ここにこそ、厳密な意味での「物思う人」が現れている。「物思う人」は、<過去>や<未来>を、言葉として<現在>に投影し続けることで、現在を無視すべきものに変えてしまうのである。
 実際、彼は自分のことを「現在進行中のことには興味がもてず、時折は、自分はいつまでもこれといったことに興味を覚えずに終わってしまうのではなかろうか」と思ったりする。
 彼にとって安住の地があるとすれば――誰にとってもそうだが――物思う必要のない現在である。セスはそれを「この町にとけ込んでいる」と表現する。彼はとけ込めていない。町の人と同じようにしゃべることができない。
「あんなにしゃべってばかりいて、よく飽きないもんだ」とは、彼の「物思い」と対極をなす「お喋り」という行動に対する呪いの言葉である。ジョージ・ウィラードに対して、町の人間に対して、彼はこの言葉をたびたび、人知れず口にしている。

そのころちょうどワインズバーグの苺の収穫期で、駅のプラットフォームでは、大人の男たちや少年たちが、箱詰した赤い、匂いのよい苺を、待避線にとまっている二輛の貨車に積み込んでいた。西は今にも嵐になりそうな空模様だったが、六月の月が空にかかり、街灯はまだ一つもついていなかった。その薄明かりのなかでは、手押台車の上に立って、貨車の戸口へ向けて箱を投げ渡している人々のかたちも、うっすらと見分けがつく程度だった。駅の芝生のふちにめぐらした鉄柵の上にも、坐っている男たちがあった。パイプの火をつけるものがあり、田舎っぽい冗談がとびかった。はるか遠くで汽笛が鳴った。すると、貨車に箱を積み込む人たちの動きが一段と活潑になった。
 芝生に坐っていたセスは立ちあがって、柵に腰換えている男たちの前を声もかけずに通り過ぎ、メイン・ストリートへ出ていった。彼は、坐っているあいだに、一つの決意をしていた。「ここから出て行こう」彼はひとりごとをいった。「こんなところにいたって、何にもならない。どこか都会へ出て働くんだ。明日おふくろにそういおう」

 うまい町の描写=<現在>があるけれど、セスはそれを眼に入れつつ、考えているのは<未来>のことである。小説にとっては描写こそが<現在>であり、だから小島信夫(この本の訳者は小島信夫なのだ)が言うように、読み飛ばされてもいいからあるべきものなのだろう。

 セスは、自分がこの町でのけ者にされているような気分になり、薄暗いなかをとぼとぼと歩いた。自分が可哀想に思えてきた。だが、自分があれこれと思い悩むのがどこか間が抜けているように感じて、にやっと笑ってしまった。

 自分に対して客観視を試みるということは、「実際にはそのとき視野にない人や物事」である「自分」を思い浮かべることで、自らを<ながむ>ことにほかならない。それがいかに不可能でどれだけ詮無いことか、セスは知っている。そのやるせなさこそが自分を苦しめていると、彼は「にやっと笑ってしまう」ほど本能的にわかっている。それでも彼は、それをせずにいられない。あーあと思いつつ読み進む。
 セスはヘレン・ホワイトの家を訪ねる。ヘレンが出てきて、セスであることがわかると「嬉しさで顔を赤らめ」る。二人は散歩する。その散歩中も、セスはまたぞろ物思いにふけっている。

「この町に残って、しょっちゅうヘレン・ホワイトと通りを散歩できたら、これは今までとは違った感じのことだし、すごくたのしいことだろうな」と、彼は考えた。彼女の腰に手をまわし、首にからみついた彼女の両手を感じている自分の姿を、彼は空想した。人間、出来事と場所とを妙に結びつけるものだが、彼も、彼女と肉体の交渉をもつという行為を、数日前に行った在る場所と結びつけて考えた。そのとき彼は、共進会場の先の丘の斜面に住んでいる、ある百姓の家まで使いに行かされた。そして帰りは、畑のなかの小道を帰ってきたのだった。その百姓家の下にあたる丘のふもとに、一本の篠懸の木がある。セスはその木蔭で足をとめて、あたりを見まわした。快いかすかなぶんぶんという音が聞こえた。一瞬彼は、その木に蜜蜂の巣があるのだろうと思った。
 だが、ふと下を見ると、あたりの背の高い草のいたるところに蜜蜂のいるのが、セスの眼に映った。はるか上の斜面からひろがってきている草原の、腰まで伸びたくさむらに彼は立っていたのだ。草は小さな紫色の花をつけ、むせかえるような匂いをはなっていた。蜂は、その草の上にも、いくつも群をなしてたかっており、働きながら歌っていた。
 セスは、その木の下のくさむらふかく身をよこたえて、夏の宵をすごす自分の姿を想像した。彼が空想のなかで描き上げたその情景では、ヘレン・ホワイトが自分とならんで寝ころんでおり、その手は自分の手にあずけられている。妙に気がすすまなくて、彼は娘の唇にキスしないでいるが、その気になればいつでもできるのだという気がしている。キスをしないまま、彼女の顔をながめ、頭の上で小やみもなく、すばらしい仕事の歌を歌いつづける蜂の群に耳をかたむけながら、身じろぎもせず彼は横たわっているのだ。

 つまるところ、セスは好きな女といる時でさえ、物思いにふけらざるを得ない。彼にとって、<現在>はおしなべて<過去>や<未来>よりくだらなく、無視すべきものであるのだ。それは現在に不満があるとか、<未来>が輝かしく思えるからとか、そんなみみっちく筋の通ったものではない気がする。
 この時、ヘレン・ホワイトはセスを待っている。つまり、セスが物思う<未来>は、彼が行動すれば表面上はいともたやすく<現在>となりうるのだが、そんなこと、彼は考えようともしない。
 <現在>というただ一点を見るともなく見つめながら、セスは<過去>や<未来>の象を結びつけて立体視させるようにながめる。それは恋する人と生きている素晴らしい情景であるが、彼はそれを目指さない。
 現在過去未来という区別に意味があるのかはわからないが、<現在>に意味を与えるものがあるとすれば、<過去>と<未来>だけである。<過去>は記憶として、<未来>は希望・失望として現在に意味を付け加える。<現在>は<現在>に一つの影響も与えない。そこでは、物事は全て同時に起こるほかないのだから、影響しようがない。
 「ながむ」という行動が、古来、<現在>という一方向をながめながら「実際にはそのとき視野にない人や物事を思い浮かべる」ことを意味そてきたことから考えると――、「物思う」ということの本質は、<過去や未来>の仮象によって<現在>に異なる意味を与えることにある。もしくは、与えようともがくことそのものにある、と言えるだろう。
 そして、これが一番大事なように思えてしょうがないので何度も似たようなことを書くが、「物思い」は、<現在>に起こることとは、まったく、一切、何の関係も無いのだ。それは、意味するものと意味されるものの関係を保ち続けるのだから。
 物思いを現実逃避と言うべきかどうかは読み手の心情に関わってくる。自分に言わせれば、むしろ彼は、<未来>から逃避しているように見える。彼はその目指すべきかも知れない<未来>がうっかり<現在>として姿を現さないように、絶えず目を光らせているのだ。ちょうど、恋する男子が意中の女子と偶然出くわさないようにするため逐一動向をチェックする具合に。

 この後、セスは「相手の心に、自分のした決意の重大さを、とくとわからせたいという欲望」がわいてきて、ヘレンにワインズバーグを出ることを告げる。ヘレンとの<未来>を物思うことで、そこから逃避する必要性にますますかられ、<現在>の仮初めの言葉が押し出される。
 ヘレンはセスの決意に感動し(上のような理由で空疎であるセスの言葉に影響を受けてしまう時点で彼女のたかが知れ、このあとジョージ・ウィラードとくっつくことになるのもむべなるかなと思える)、セスをすばらしい人だと思うが、ずっと抱いていたある感情は消え失せてしまう。

先ほどまでその肉体に侵入してきていたある得体の知れない欲望はあとかたもなく消え、彼女はベンチの上でいずまいを正した。雷は鳴りやまず、稲妻が東の空に光った。先ほどまではとても神秘的で果てしもなく広いものに思えていた庭、そばにセスがいることによって、新奇なすばらしい冒険の舞台になりそうだったこの場所も、今ではただ平凡なワインズバーグの裏庭に戻り、その広さも知れ切って何の含みもないものに変っていた。

 セスがヘレンとの幸福な生活の「物思い」にふけって<現在>から離れていた時、ヘレンは、セスとは正反対に、その気分というものの確かさによって<現在>で、言わばセスを待っていたのだからやるせない。
 これを男と女のちがいというのは乱暴だろうけれども、はっきりしているのは、彼女は言葉に依ることがなく、だからこそ<現在>の認識を改めることができるのだ。それは裏返せば、彼女は常に<現在>と向き合っていなければならないということである。
 セスの<現在>を駆動させているのは、物思いに現れた<未来>からの逃避である。だから彼の実際的な未来への展望は、実に心許ない。

「ぼくは、うんざりしてるんだよ。ぼくは何かやるよ。ともかくおしゃべりなんか役にたたないような仕事につくつもりだ。ひょっとすると、どこかの町工場で機械工にでもなるかもしれないし、先のことはわからないよ。そんなことはどうだっていい気がしている。ぼくはただ、働いて、口をきかないでいられればそれでいいんだ。今ぼくが考えているのは、それだけだよ」 

 この気分は、言うまでもなく『ライ麦』のホールデンと比べるべきではないだろう。
 セスは彼女のことを「ジョージ・ウィラードなんかより、ずっと感受性ゆたかで率直だ」と感じているが、その通りなのだ。その通りなのだが、本当は「自分なんかより」と言うべきだ。少なくともジョージ・ウィラードは他人といる時に物思いにふけることはない。セスは難なくそれをやる。感受性とは、<現在>にこそ働くものである気がする。

 セスはベンチから立ちあがって、手をさし出した。まだ別れたくはなかったが、それ以上いうことを思いつかなかった。「逢うのもこれが最後だね」彼は小声でいった。

 「物思う人」でしかありえない彼は、ことごとく<現在>向けの言葉が出てこないで、裏目裏目のヘマをに繰り返す。それは意図的な、<未来>から運命づけられたようなヘマである。だから彼の言葉は全てウソになる。彼にとって言葉とはそういうものなのだろう。これでは「おしゃべり」にまつわる全てを毛嫌いするのも無理はない。

 ことほどさように、「物思い」とは現在に背を向け続ける行為であり、それには相応の強さが必要であり、無論、自分を説得するだけの空想や言葉が必要であり、念願叶っても疑い逃げ続けなければいけないのであり、少なくともジョージ・ウィラードよりも、セスは作家に向いているだろうぐらいのことは考えられるが、そんなことは彼の慰めになりはしまいというのも本当だろうし、もうなんだか悲しくなってきたし、これ以上言うこともないので、この短編の結び、彼の最後の言葉を載せておくことにする。ちなみにこの連作短編集の主人公ともいうべきはジョージ・ウィラードであり、彼は新聞記者として様々な人々との「お喋り」や交流によって、ワインズバーグという町の人々の物語を浮かび上げていく媒体となっている。彼だって一人になれば、かなり興味深い物思いを見せる。見せているだろう。誰だってそうだ。それにしても、である。

夕方に覚えたあの孤独感がよみがえってきて、今しがた体験したばかりの冒険の思い出も、その孤独の色に染められてしまった。
「へん!」と彼は叫び、振りかえってヘレン・ホワイトの立ち去った方角を睨みつけた。「物事ってのは、こんなもんだ。あの女もほかの連中と同じになるさ。あいつだって、そのうち妙な眼つきでおれを見るようになるだろうな」彼は首をうなだれて、このことを、とつおいつ考えた。「あいつだって、今に、おれが近寄ると迷惑がって、妙な気分になるんだろうよ」彼は小さくひとりごとをもらした。「そうなるんだよ、どうせ。何もかもそうなると相場がきまっているんだ。誰かが好きになるったって、好かれるのは、まかり間違ってもおれじゃないんだ。誰かほかのやつ――どこかの馬鹿野郎――どこかのおしゃべり野郎――あのジョージ・ウィラードみたいなやつなんだ」