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『ちーちゃんはちょっと足りない』を読んで

 

 

 ベンヤミンは友人のショーレムに宛てた手紙のなかで、カフカ作品の登場人物についてこう書いている。

第一に、人は、他人を助けるためには、愚か者でなければならない。第二に、愚か者の助けのみが真に助けである。


 ちーちゃんの人間関係の中で、ちーちゃんのことを「ちーちゃん」と呼ぶのはナツだけであるという事実が、『ちーちゃんはちょっと足りない』と思っているのがナツだということを物語っている。
 ナツはちーちゃんと自分のことをさして「私たちは恵まれていない」とたびたび考え、二人は足りない仲間として運命共同体であるのだが、そのナツからしても「ちーちゃんはちょっと足りない」のだ。

 ナツはちーちゃんとともに「恵まれなさ」を自前の免罪符にして3000円事件の犯人となり、人生の苦境に立たされる。
 事件はナツのいないところで解決するのだが、ナツはそれを知らない。ばったり出会った旭が真相を知っている=ちーちゃんがバラしたにちがいないことに絶望し、ちーちゃんの「いっしょにかえろ」という誘いを断って一人になる。
 翌日、ナツは「ちーちゃんとは絶交したし」と思いながら、ちーちゃんがいなくなったことをちーちゃんの姉に知らされて街に出る。
 そこで自分と近しい旭と、事件を通じて敵対していた藤岡が街を歩いているところを目にする。彼女たちが事件をきっかけ(ナツにとって事件は終わっていない)に友だちになったのだと知る。そこにはナツの知っている旭はいない。ナツはちーちゃんがそこにいたのかどうかが気にかかる。意を決して旭に電話したナツは「友達と遊んでるけど、なんで」という言葉に憎悪し「いないけど、なんで」という返事に安堵する。その友達の中にちーちゃんが含まれていないことに安心する。旭を大嫌いだと思う。
 ナツはひとり歩く。お金、友だち、頭、品性、善意。自分に足りないものを並べ立て、自分をクズだと呪いながら歩く。
 ナツは橋の上で立ち止まる。欄干に手をかけ「ちーちゃんが帰ってこない」ことを想像する。「未来がせまいよ」と思う。
 絶望して、ナツはちーちゃんを呼ぶ。
 ちーちゃんちーちゃんちーちゃん。自分の望むような、みんなと同じような、大きい声は出ない。
 しかし、ちーちゃんは現れる。
 愚か者特有の足りない笑顔を浮かべてナツのもとに。「私なんかにそんな顔をしてかけよってくれるの」とナツは泣き笑う。
 ナツはちーちゃんを抱きしめようとするが、「そんなことしたら気持ち悪いから」とためらう。
 ナツは互いの存在を確かめるようにちーちゃんと名前を呼び合い、救われる。

 ちーちゃんは、世界にただ存在し続けることで、ごく近い人のみが感じられる救いをまとう。
 ちょっと足りない愚か者の存在が許される世界を目にすることで、世界にナツがいる場所はつくられる。ちーちゃんのいない世界を「せまいよ」と思う。
 ところで、ラストもそうだが、ナツはいつもフェンスの前を歩いている。この世界の至る所にある、向こうを見ることができるが、そちらへ行くことはできない境界線。なんでも自由に買えるお金、いつも家にいる家族、彼氏、電車でしか行けない場所、大人の世界。
 ナツにとって世界は、自分を閉め出しながら見せつけられるようにフェンスで区切られている。だからナツは、高台から、ちーちゃんと一緒に町を見下ろした時、自分たちを「世界で一番美しい二人だったかも」と思う。その世界の本来の広さ、美しさに感動するのだ。
 だから、もしかしたら、ナツはそのままでも救われていたかも知れないとも考えられる。「ちーちゃんはちょっと足りない」ことを忘れ、その無垢な力に頼らなくとも、ナツは自らの目で境界線を消し、この世界を広く美しいものとして信じることができる素質をもっている。それすら持たないちーちゃんとはちがって。
 これを強さととるか弱さととるかは難しいのだが、ナツはちーちゃんを三度呼んだ。
 ペテロは苦境に立たされて救いであるイエスのことを(予言された上で)三度「知らない」と言って裏切ったが、ナツは救いであるちーちゃんを自ら裏切ることはしなかった。
 橋の上、(フェンスとちがって)向こう側に落ちてしまえる地獄の淵に立ちながら、ちーちゃんを呼んだのだ。自分に抗って、ちーちゃんを呼んだのだ。自分より弱い愚か者の名前を。
 そしてナツは笑った。ナツは救われるための感度を自分の中に持っている。それを生かして、笑うことができる。それは確かに「救い」かもしれない。母がそれを見逃さず「笑顔がステキなナッちゃんへ」と走り書きするように。
 ベンヤミンはこう言う。

第一に、人は、他人を助けるためには、愚か者でなければならない。第二に、愚か者の助けのみが真に助けである。不確かなのはただ、こうした助けが今なお人間の役に立つかどうかということだけだ。ひょっとしてそれは助けなどなくてもやって行ける天使たちを助けているのかもしれない。

 

 ただし、油断をしてもいられない。ゆめゆめ油断できぬように、もしくは油断しようと思えばできるように――認識世界のあり方のように――このマンガは描かれている。
 1話と8話のラストカットで、ナツとちーちゃんはゆるやかな坂に面した月極駐車場の前を下ってゆく。そこにもやはりフェンスはある。
 1話にあった空車ありの看板が8話では無くなっており、1話にはいた旭も8話ではいない。
 ここに象徴を読み取らない方が難しい。明らかに駐車場は大人の世界である。フェンスはあるが出入り口は開かれている、向こう側の世界。
 誰もが、フェンスの向こう側に自分の居場所を確保し、大人になっていく。しかし、二人は今も顔を見合わせ、フェンスのこちら側で笑っているばかりだ。

 ちーちゃんによって一時的に救われる前に、ナツは「世界でいちばん美しい二人だ」と思うことのできた高台へ寄った。しかし、ナツは救われることはなかった。そこに感じた美しさをナツは感受することができない。取るに足らない「今の気分」というものによって。
 ゆっくりと着実に変わりゆく世界(それは本当は社会と言った方がいいかもしれない)で、二人は、一方は先天的に大人になる権利を奪われ、一方は大人になることを拒否し、世界の広さに目を向けず、狭い世界で救われ続けることを期待して笑い合う。
 救いなどなくてもやっていけるかもしれないのに、時々訪れる小さな救いにとりすがり、その都度救われることを願っている。この広い世界で救いなどいらないのかもしれないのに、その都度救われることを願ってしまう。
 それはなんとあやういことだろうか。

 こういうあやうさを描いた物語はたいてい美しさのようなものを伴っている。その背後で、現実のあやうさは"知らぬ間"に募っていく。
 そのあやうさのふきこぼれのような、駐車場の看板に象徴される「この世界の恐ろしいディテール」に目をそむけ続ける覚悟がなければ、何かを美しいと思う資格も、救われる資格もないかもしれないと自分は思った。
 そして、それはまぎれもなく、救いがないということなのだ。