読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

欲望の「ダシャン」 (穂村弘『短歌の友人』)

 

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 

 

 謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉  小椋庵月

 一読して、面白いなと思った。歌自体も悪くないのだが、それ以上に魅力のポイントがただ一点に集中していることが面白かったのだ。具体的に云うと、それは「ダシャン」の「ダ」である。この「ダ」に一首の命が凝縮されている。もしも、この歌が次のようだったらどうだろう。

 謝りに行った私を責めるよにガシャンと閉まる団地の扉

「ダ」 を「ガ」に替えただけで一首は死んでしまう。このかたちでは、<私>の体験の生々しさが伝わってこない。単なる報告のようにみえる。あたまのなかでするすると組み立てたものをそのまま言葉にしたようでもある。その理由は「ガシャンと閉まる」が慣用的な表現だから、ということになるだろう。


 というようなことが書いてあり、一読して、面白いなと思った。それからついでに、バカヤロウがと思った。
 この本は、いわゆる真面目モードの穂村弘である。自分はけっこう穂村弘を読むというかたぶん著作は全部読んでいる。
  穂村弘にかぎらず、冴えない日常、トホホな毎日、カスな現状、などなど、言い方を変えて、自分の人生に救いを見出したり、いきりすぎて賛美したり、している。もっと言うと、救いを見出す手管を披露することで、冴えないカスでトホホな毎日をナニガシカに昇華させようとしている。しているしている。

 この世の中のそこらへんに転がっているものは、そのやり方が上手いか下手かのどちらかに分けられていて、自分だってご多分にもれないけれど、とにかく、どんなに見た目がネガティヴだろうと、その裏に透けて見える人生に対するポジティヴさに鼻白んでしまう。
 見回せば趣味のひけらかしばかりやっていて本当にうんざりしてしまうのだが、この期におよんで孤独から距離をとろうという虫のいいことをしながら、自分の好きなことをやっているという気になっているというのが救えない。本当にこのまま死んでしまおうか。
  勝手に歩いているハムスターの行く手を、もうほんとになんでもいいが「ぱど」かなんかでふさぎながら自分の行きたい方向に進ませているが、実際はどこを目指しているかも何の意味があるかもわからないという状況。それぐらいしか楽しみらしい楽しみがなくて一人でやっているのだが、ハムスターや奮闘する自分を見せたいというのがメジャーなやり口になった世の中で、書いたものを載せるのもバカの片棒を担ぐ行為なんじゃないかとくさくさする。
 自分たちのやっていることが「自分さがし」だなんてこと、やっている奴らは考えないのだが、「自分さがし」と口に出した奴のことはバカにしている。意味がわからない。

 と、ふだん気にもとめていないことをダラダラ書くのは、書くというのはそういうことであり、書こうと思えばいかなる立場でも書くことができるということを示すためで、心の底からどうでもいいが、思おうと思ったら思うことができる。そうすると自分の意見みたいに思えてくるし、責任もとらなければいけない気分になってくる。
 言葉とはそういうものだ。

「ダシャン」にみられるような表現の新鮮さが、リアリティに結びつくのは何故か。その価値の本質とはなんなのだろう。おそらく、それは我々自身の生命の一回性に対応していると思われる。我々は例外なくただ一度きりの生を生きている。ただ一度きりの生の中で、ある日、ある時、団地の扉が閉まる。その事態のかけがえのなさを「ダシャン」は「ガシャン」よりも深く捉えて表現しているのだ。


 人と関わるか関わらないかだって選ぶことができる。1年、人間関係を休むと言って、肉体的にも精神的にも健康なまま、痔はひどいが、休むことができる。虚無感すらない。友達はゼロ。職場の人付き合いもいっさい無し。それでもぜんぜん大丈夫。自分がいようといまいと変わらない。
 そんな世の中で、「ダシャン」だろうが「ガシャン」だろうが、本当になんだと言うのだろうか。
  生命に一回性はあるだろう。でも、それは生命にあるともなくあるものであって、表現した瞬間、消える種類のもののはずだ。「怒られて謝りに行った」なんて切り取るべきでもないことをわざわざ切り取って、工夫して書いて、挙げ句の果てに投稿して、生命の一回性をより深く表現しているって、いったい何なんだ、と思う。気持ち悪くないすか。
 と同時に、オリンピックなんか見ていると「ガシャン」「ダシャン」のどうのこうのに近い世界にいる自分が情けなくなる。身体の動く歓びや競技を楽しみたいと思う気持ちや向上心が真っ直ぐそのまま最高峰の舞台へと続いていく(ように見える)スポーツの世界に比べて、こっちの世界のせせこましさ は筆舌に尽くしがたい。
 そんな世界に関わるぐらいなら、「ガシャン」の方がいい。だから「ガシャン」の方がいい歌になる。それだけの話で、だからどうしても「ガシャン」を自認している話を書きたくなる。

 こうした固執すら、言葉にした時点で、生命の一回性においては何の意味もない。ぜんぶ何の意味も無い。
 でも、この歌を褒めようと思ったらこう言うべきだということすらも知っている。信じていなくたって、信じているように書ける。少し信じていることを、妄信して書くことができる。そういう風に、周到に風通しを確保しながら、穂村弘は書いてきたのではなかったか。そんなこともわかっている。
 でもでも、その先に何があると言うのだろう。

  これは、どんな聡明な人たちの間でも議論のさいにレーヴィンがしばしば気づいていたことだったが、当人たちはさんざ苦労して、おびただしい量の論理的技巧や言葉を弄した挙げ句の果てに、自分たちが長時間をかけて論証し合っていたことは、とうの昔に、議論のはじめから双方にわかりきったことだったのに、ただ各自の好みがちがっているために、相手から言いくるめられまいとして、その好みを口に出さないまでだった、ということを認めるようになるのである。


 一切は、好みに過ぎないのかもしれない。伝わるか伝わらないかでいったら、伝わった方がそれはいいかもしれない。では、それを認めた後に何がくるのか。
 「ダシャン」という延命装置によって、自分の人生を特別なものにしていけばそれはそれで快適だろう。しかし、ふいにやってくる揺るぎのない「ガシャン」に触れて、何を思うことができるか。それを熟慮することが、文学ではないのだろうか。いや、文学なんてもうないのだな。「ガシャン」を「ダシャン」に空耳する技術を高めるだけで精一杯で、創作物でさえその食い物だ。

 こうしたことを考えるのは大抵「ダシャン」の人ではないという点において、私は「ガシャン」を支持する。「死んでいる」クソみたいな歌だとしてもそう思う。こんな世の中で、死なずに何かができるものか。