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宵の明星3

「今日、放課後、付き合って」
 そう言われたのは朝の昇降口だった。もしかしたら待ち伏せしてたんだろうか。そして放課後、私たちは山にかかった石段を登っている。
 日の当たらない石段は苔むしていて、滑りやすい。お嬢様のくせに、千鈴の足取りは軽くてしっかりしたもんだ。わたしの方がよほど不慣れで、こうして後ろから、紺色のハーフパンツに包まれた引き締まったおしりや、白い短いソックスに浮き上がるストックみたいな腱が地面に刺さるのを見ていると、箱入りでもずっとこの土地で暮らしてきたんだということがわかって、くやしいけれど見惚れてしまう。千鈴がジャージを着て、ランドセルを背負っているのが救いだ。お嬢様服でこんなことをやられたら、たまらない。
「ねえ。ここってお寺? 神社?」
「お寺」
「なんてお寺?」
「六窓寺」
 階段の遙か上にそびえ立つ石の柱を指さして千鈴は言った。げ、あそこまでのぼるのかよ。げんなりして、千鈴がとうとうと語る、月明かりとか六つの窓とかの話を聞き逃した。
 上りきった時、私の息はだらしなくあがってしまっていた。振り返ると学校の校庭が小さく見える。何人か低学年の子が遊んでいる。発色のいい空色のボールがていんていんと、音はもちろん聞こえないけど、そんなふうに跳ねているのがわかる。ここに来るのは初めてだ。左手には、ちょうど同じ高さに千鈴の家が見えた。
「それは?」
 階段の脇の平べったい石にミミズみたいな字でさらさら何か書いてあるのを指さして言うと、千鈴はそちらを見ないで答えた。
「生き憂しと言ひてもさらにかなはぬは人やりならぬ有明の月」
「へえ」
「昔の人の歌」
「……誰?」
「藤原顕氏」
「どういう意味?」
「さあ」
「お月様の歌?」
「たぶんね」
 バカにして。別にいいけど。
 石段を上りきって、本堂に向かう道を逸れて、千鈴はどんどん歩いて行った。不自然なくらい早足だ。そのままお墓の並んだところを通り過ぎて、また、今度は石段にもなっていない坂道を上る。風の鳴る音、虫の声、そんなものしか聞こえない。風が涼しくて気持ちがいい。足取りは少しゆっくりになった。
 少し開けた場所に出ると、そこには石で造った無骨なベンチがあった。腰をかけて見上げると、白い工場が見える。壁に「NARUTAKI」と大きな青い字で書かれている。
「へえ、こんなとこに出るんだ」
 麓から見上げると、木立の中に、でいだらぼっちみたいにぬっと立っている工場。千鈴の家から行く道は想像できていたが、反対側からも来られるとは思わなかった。
「ここ、工場がもっと小さかったとき、工員さんが休憩でタバコ吸うところだったんだって」
「ふうん。分煙ってやつ? なんて、昔はそんな言葉なかったか」
 千鈴は答えない。こういうことにもだんだん慣れてきたな。
 私がベンチに腰掛けてなんとなくタバコの吸い殻を探していると、千鈴は黙って私の隣に腰掛けてきて、膝に載せたランドセルを開いた。傷が無いわけでないのに、私のよりもずっときれいなのはどうしてだろう。
 金具がひねられてカチと小綺麗な音を立てる。お嬢様の優雅な所作。なんていうか、決して反動を使わないのだ。大きく口を開けたランドセルのベロがすっかり反りかえるまで、千鈴はきちんと手で押し広げた。学校での手つきと同じ。こういうところはそう簡単に切り替えられないんだな。どんなに強がったって、千鈴は千鈴なんだろうと私は思う。
 中をのぞき込むようにしながら、新品みたいなレポート用紙と小さな革の筆箱を取り出して、見とれている私に突き出す。千鈴の場合、新品かと思ったら異常にキレイに使っているだけだったりするから油断ならない。
「で、どんな歌詞にしようか」
 声が弾んでる。なんでこんなにノリノリなんだろう。
「筆箱、自分のあるから」
 私はゆるめて閉じてあった自分のランドセルの脇の隙間に腕を突っ込んでまさぐる。知ったもんか。
「それって、東京で買ったもの?」
「は?」
 思わず振り向く。
「筆箱?」
「じゃあ筆箱も」
「筆箱も、って、この、ランドセル?」
 こくこくと千鈴がうなずく。う、かわい。ひるむな、あたし。
「そりゃ、そうだけど?」
 そうだけど、マジ? そんなことまで気にするの? ランドセルなんかどこで買おうと同じだし、たぶんわたしの、あんたのより安物だよ。どれだけ憧れちゃってるんだろうか。だから、わざと聞いてやった。
「…なんで?」
「別に。引っ越したこととかないから、そういうものはどうするんだろうと思って」
「そのまま持ってくだけだよ。だからこんな、金具とかはげちゃって、傷だらけだし」
「今まで何回引っ越した?」
「えーと、6回」
「小学生に入ってからは」
「最初が東京で、栃木、また東京の別のとこ、そんでココ」
「それが、全部、このランドセル?」
「そうだよ」
「ふうん、すごいね」
 大事に使っているつもりでも縦横無尽に傷のついた革をなでる千鈴の憧れそのものみたいな愛おしげな細い指の運びを見ていたら、なんだか少し申し訳ない気持ちになった。しっかし、この斬りつけられたような傷はどこでついてしまうんだろうな。まずったなあ。この爪の痕も、どこの町で誰がひっかいたのだろう。帰りの会に退屈した自分かも。
「ねえ、歌詞とか、書いたことあるの?」
「あるはずないじゃん。そんなことしない。千鈴は?」
「ない。でも、やっぱ恋だよね」
「恋の歌か」
 つぶやいてから、そうだね、と私は添えた。
 千鈴は黙って何か考えているようだった。
 恋のことを考えているのかなと思ったら、やべ、興奮してきた。木漏れ日の柔らかい陽射しに伏せた睫毛がよく似合う。近くで見たら、わたしが嫌いな豆のたくさん混じったおせんべいみたいで至極手触りの悪いベンチに何のためらいもなくそっと置かれた手指には、紗をかけながら細い肩を滑り降りてきた光が降り注いでいる。わたしには縁がないような光を味方にしておいて、それでも千鈴は自ら光りたいと願うのだろうか。
 日陰から見た私にはそれが実際問題とてもまぶしくて、気付いたら、ここで、誰の目にも触れず、こんな風に暮らしていて欲しいという思いが頭にいた。私は親かよ。
「でもさ、自分で作った曲を歌うなんて、正気?」
「そういう子、よくいるんだって。アピールのためだもん、やれることはやりたいの。どうせ1回こっきりだもん。後悔はしたくない」
 紋切り型のセリフを言って、なんてのん気なものだと思う。それに付き合ってるわたしもわたしだけど、さ。しかも吉本のアイドルオーディションなんか。
「それに、なんだか楽しそうだと思わない?」
 ちょっと高飛車な物言いが飛んで帰ってきて、わたしは苦笑する。
「そうかねぇ?」
 言いながら何気なくレポート用紙をめくると、一枚目に「8×7 = 56」と三べん書いてあった。丁寧だけれど少し震えた幼い字。千鈴のものだろう。低学年の頃だろうか。きっと最初、覚えられなかったんだ。九九の中でも手強い七と八が手を組んだら、難しい。
「ねえ、考えるから一枚ちょうだい」
「どうぞ」
 千鈴が几帳面に鉛筆を一本一本けずっている隙に、そのページとその下のページを二枚同時に破り取る。あとで何かに使えるかもしれない。わかんないけど。切り離して、計算の書かれた紙だけ手早く折りたたんでランドセルに押し込んだ。
「じゃ、始めよっか」
 そう言って千鈴がベンチに足を上げてかいたあぐらは、体の柔らかさとひざこぞうの曲線美に加えて、肌もソックスも白くて、またまたそこに光があたるものだから、まるでとろけたように見えた。
 その中でお尻ごと回転してこちらを向くその真剣な顔。やる気まんまんって感じ。
「でもさ、歌詞ってどういう風につくるの?」
 わたしが聞いたら千鈴は案の定、知らないと言って、そんな風にわたし達の秘密が始まった。