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君こそタヌキだ

 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの亡骸を発見したのは、つらいことに当の母ダヌキでした。帽子はかぶっておりません。
 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキは、まるまる太った土手っ腹に一発撃たれたあと、這って這って、巣穴の近くまでやってきて、そこでベロを出して力尽きていました。母ダヌキと奥多摩に行った時にひろったという近鉄バファローズの帽子は、倒れた拍子につばを押されたのでしょう、やっとこ頭に乗っかっているばかりでした。母ダヌキが帽子をしっかりかぶせてやるところを、頭に障害のあるイボイノシシが見ていたそうです。
 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの巣穴へ行くと、一面にばらして並べられた1995年のスポーツ報知の中央に、当の死ダヌキが腹ばいで寝そべっていました。使い古して放っておかれた粘土のように周囲の空気をまとってひっそり硬直しています。
 片隅では、病的に大きなシイタケで作った壁掛けにぶら下がった近鉄バファローズの帽子が、裏穴へと抜けていく風に吹かれてぱかぱかと拍子を刻んでいました。
「読んであげてください、読んであげてください」
 母ダヌキが泣きながら言うもので、みんな森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの死骸のそばによって、スポーツ報知を読みました。
「まず死に顔を見て、それから読んでみてください」
 みんな、言う通りにしました。すると、ブロスのノーヒットノーランも、テレサ・テンの死も、みんな、みんな、森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキが伝えてくれたように思えてくるのでした。こんなにたくさんの情報を、立派だったなあ、ありがとう。そんな風に思えてくるのでした。そしてすぐに、ウソつけ、と思うのです。
 森のスケベ、別ダヌキだけは、地面の記事を読んでいる素振りでスポーツ新聞のエッチなページや風俗情報を探しているようでした。森のスケベ、別ダヌキはひどい鳥目なので、新聞の上を這いずり回って形の悪い金玉(なにか細長いのです)が古紙にこすれるシャリ音が、暗い巣穴の中に響いていました。そんな記事は一枚もないのに、です。
 母ダヌキはいったいどんな顔をしていたのでしょうかわかりません。いちばん湿った、こんもりと暗い隅のほうにじっとして、時々なにか食べているようでした。
 巣穴を出ると、小鹿がぽそりと言いました。
「森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキさんが死んで、森の情報は、どうなってしまうのかしらねえ」
「何も変わりゃしないよ」と僕。
「その通り。あいつは何も知らず、何も伝えず、だから何もわからずに死んだのだ」とスキー用の虹色のサングラスをかけたキツネ。
「あら、どういうこと?」小鹿が綿毛のようなしっぽを揺すりました。
「森の新聞記者なんて名前だけさ。君はあのタヌキに何か教えてもらったことがあったかい。それまで誰も知らなかった『情報』ってやつを……」
「ううん、そうねえ」
 小鹿は上を向いて耳をぴくぴく動かします。
「これまだ出しちゃいけない情報なんだけどなあ」
 それが森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの口癖でした。でも、森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキはろくすぽ何も知りませんでしたし、それなら夕方、おしゃべりしながら三々五々に森へ帰ってくるカラスの方がよっぽど色々知っていました。昨日はスカイリムの新しいコンテンツが出てると教えてくれました。
「ほら、無いだろう。森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの代わりなんて沢山いるさ。今回、森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキの死をすっぱぬいたのは、彼のお母さんじゃないか。誰にだってできることだよ。君だってその気になれば新聞記者だぜ」
「でも私は近鉄バファローズの帽子をかぶっていないから、むずかしいわねえ」
「君は、間抜けなところも、しゃべり方も、あいつにそっくりだよ」
「そうかしら」
「そうさ。いいかよ。みんな、どうでもいいことさ。タヌキだけじゃないよ、君だって毎日何をしてるんだい。森を歩き回って、ときどき恥ずかしそうに、誰かの前で歌をうたうぐらいだ。怒るなよ、僕だってそうなんだから。自分が一人、特別な顔をしてそこに立って、毎日を生きたささやかな証拠と、ぼんやりとした不安を種に、誰かに向かってさえずっているだけなんだから、やんなるね」
「あなたの言うこと、少しわからないところがあるわ」
 小鹿は踊るようにわざと膝をかくかくさせて落ち葉や枝を丁寧に踏みしめながら、少し退屈しているようでした。僕は小鹿に向かって言いました。
「森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキのお母さんはなにか食べていたね」
「何があったって、何か食べて生きていくしかないんだ。つらくたって腹は減るよ」とキツネが代わりに答えました。
「それはそうかもしれないけれど、お母さんはきっと、みんながいる前でしかごはんを食べられなかったのよ。一人じゃとても、食べることなんてできなかったのよ。かわいそうなタヌキのお母さん」
 一度、森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキがみんなからの尊敬を集めたことといえば、去年の春。去年の春と言えばまだまだ生きている方もたくさんいらっしゃって、裏を返せばそのあとみんな毎日たくさん死んだということで、森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキだって、そんなふうなうちのたった一匹が森から失せただけのこと、実に愛くるしい小さな新顔もだいぶん見えますし、年が明けて去年は何があったかしらと振り返ってみればタヌキ一匹撃たれたくらい、なんでもないことではありますが、なんとなくしみじみとさびしいのはどうしたことでしょうか。
 そうです、去年の春でした。森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキのやつめが、人里から三色に輝く歯みがき粉を拾ってきて、森の注目の的になったことがありました。森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキは誇らしげに、東奔西走めぐりまわってチューブを絞り出したものです。みんな一生懸命、松葉で食べかすだらけの歯をみがきました。しかしある日、人間のこしらえたものですから何か悪いものでも入っていたのでしょう、ヤマネの坊やが口からあぶくをいっぱいに出して死にました。それからです。森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキが近鉄バファローズの帽子をかぶるようになったのは。
 僕は森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキのために、ひとつ歯みがき粉の話を出してみようかと思案しましたが、考えてみれば、どってことない話です。なぜ死んでしまったからと言って、そんな話をする必要があるのでしょうか。そういえばヤマネの坊やが死んだことなぞ、僕は今になって初めて思い返したのです。それに、話せばヤマネの坊やことを思い出すでしょう。
「そうやって、何かをし遂げた気になって、一人ずついなくなるのだ。こうして話しているうちはまだいい。2年や3年経ってみろ。思い出すのも季節の変わったついでになる。10年20年経ってみろ。誰かが死んだら思い出すのだ。30年40年経ったら、思い出す人すらいなくなっている。どうして生きて、喜怒哀楽を出し入れして毀誉褒貶の関係に肩まで浸かりながら無視されて、それでもあれこれ喋っていられたのか不思議になってくる。今に、あの巣穴から、タヌキの骸も臭いも消えてしまうのだ。近鉄バファローズの帽子が残ったからって何になる? 風に揺れて音を立てるぐらいだ」
 森の新聞記者、近鉄バファローズの帽子をかぶったタヌキは何にも知りませんでした。森でいちばん腕っぷしのある大きなクマがメスだということを最後まで知らずに、奴こそ森のキング・オブ・キングスだと興奮していました。
「でも、あの帽子を見たら、みんな、タヌキさんのことを思い出すわねえ。あのタヌキさんは、悪いタヌキじゃなかったから、きっとみんな、さびしく思い出すわねえ」
「それも、僕らが死ぬまでのことだ」
 キツネの言いぐさ。スキーのサングラスに浮かんだ虹色の照り。小鹿のくりくりした瞳と、それを縁取るしっとり敷き詰まった毛の流れは、見るからに不機嫌な色を浮かべ始めました。
「それで十分だと思うけど……」と僕は何にもわからないで取り繕うように言いました。
 近鉄バファローズのマークのデザインは岡本太郎だと教えてくれたのは、9月から「仕事をセーブする」と言って東の森の楡の木のそばでトカゲのおっさんと全く同じ着ぐるみで暮らしている山田五郎でしたが、そういえばこの前行ったら死んでいました。人里ではずいぶん成功した偉い人だとうかがっていましたが、何にも言わずにただそのメガネを太い根に伏せて、低く張り出した枝に茂ったやわらかい葉に隠れるように死んでいました。
「どの道、みんな孤独なんだ」
 キツネの方でも釈然としないのでしょう。鼻を低く鳴らしました。
「でも、できることならそれを、どれだけ月並みな安い付き合いとでも交換したい、行き当たりばったりの、取るに足らないくだらない人とでもいい、不毛な言葉の一致だけでもいいから、この大袈裟な孤独と交換したい。そう思うような夜がくる。そして、そういう時こそ、孤独は強く覆いかぶさり、前よりずっとだらしなく大きく広がるのだ。でも、ぼくたちはそこを乗り越えていかなければいけない。嘘の付き合いをするよりは、一人でいる方がずっとよい」
「きっと、あなたは怠け者なのよ」
 僕はこの胸の中に少しずつ玉のようにかたまったものが、内から体ごともっていかんばかりに飛び上がるような心地でした。ここに誰がいたとしても、自分に言われたものと思ったことでしょう。
「じゃあ、きっとあなたは、タヌキさんが、あなたや私やみんなの思いも寄らない、不思議な美しいものを感じていたに違いないことも、忘れてしまうのね。みんなが、それをどんな思いで胸に秘めて生きているのかなんて知ろうともしないんだわ。わたし、一人一人のことなんてわからないけど、わたしも含めたみんなのことならわかる気がするの。みんな、それぞれ、好き勝手に生きようとしてるけど、そういうのって、恵まれた人だけに許されたぜいたくなんだって、あなた、考えないのかしら。あなた、口では逆を言いながら、まるで、恵まれた人みたいな話し方をするのね?」
 小鹿はほとんど泣き出さんばかりに、でも涙はぜんぜん出ないで、喉から溢れた言葉をできるだけ淀みなく、一つ一つ取りこぼすことなく、遠くへ弾き飛ばそうとするように、勢い込んで喋り立てました。
 それからキツネの方なんか全然気にせず、はしたなさにはっと口をつぐんだせいで、少しゆるんだ言葉が残りかすのようにこぼれました。
「どうしてここでばかり、そんな態度でいるのかしら……」
 キツネはスキーの時に使うサングラスを外すべきです。それは真白なゲレンデで使うものなのですから、スキーをする時以外は外しておくべきです。だから小鹿が言わなくても済むことを言いました。
「わたしはタヌキさんが好きでした」
 それでみんな、キツネも、小鹿も、僕も黙ってしまいました。ああ本当に僕たちはどこにいても、こんなことのせいで、みんなバカなのではないでしょうか。きっとそうだと思います。