宵の明星

 白塗りの高い壁に時おり松の緑が頭を出して、それずいぶん続いていると思ったら、やがて立派な木製の門が現れて、その中が全部、千鈴(ちすず)の家の敷地なのだとわかった。すごっ、と圧倒される。都会に比べるとでかい家の中でも、ひときわ、あきれるくらいに豪華な家。その門構えを見るだけでも、私の足はちょっとすくんだ。お屋敷だ。振り返って見下ろすと、静かな町並みが見える。街ではなくて、町って感じで、すかすかの。
 ゆかりちゃんから持たされて大事に握りしめた封筒は、汗ばみやすい私の手のせいで、なんだかしわくちゃになっていた。封はしていないけれど、見る気にはなれない。せめて外から見えたことにすればと太陽にすかしてみたけど、ムリ。なぜか名指しで呼び出され、職員室で渡されたコレ、いったい何が入っているんだろうか。
 もう一方の手にはビニール袋に入れたパンがある。私にかじられて、きつね色の焼き色から、ケガをしたみたいに白い部分が口を開けている。揺らすと、袋の中で時折そっと跳ねた。
「鳴滝さんちって、あなたの帰り道の途中よね」
「違いますよ」
「で、ほんのちょっと回り道って感じか」
「かなりですよ。学校挟んで反対側だもの」
「ええ? そんな、ほんの少しよぉ。ねえ、これ届けてくれないかなぁ。お願い! わたし、これから職員会議なの」
 その時にはもう、ゆかりちゃんはそれらを全部わたしの手に押しつけていた。
「しょうがないなあ」
「この封筒は、千鈴さん本人に渡してね。こっちのファイル、学年便りと保護者会のお知らせはお母さまに渡して構わないから」
「はい」
「封筒だけはくれぐれも本人にね。会えるはずだから」
「はい」
「あ、それからこのパン、途中で食べてしまってかまわないから。心配しないで。鳴滝さんちへの道なら誰も見てりゃしないわよ。それじゃ、恩にきるわね、竹下さん」
 小6のわたしから見ても幼いゆかりちゃんの、能天気に明るい声に送られて、私は「失礼しました」と職員室を出た。失礼したのは誰だか。千鈴になんか会いたくなかった。それでも引き受けたのは、わたしが優柔不断で断れないからだけではない。千鈴の家の暮らしをチラ見できるかも、という好奇心からだった。
 ゆかりちゃんの言うとおり、確かにここまで誰ともすれ違うことはなかった。一度、大きなトラックが通ったぐらい。彼女によれば、途中から私道になっているらしい。
 パンは食べかけを持って行くわけにはいかないから、門から少し離れた桜の木の下で慌てて食べた。春になったら千鈴はこの桜を見ながら登校していくのだ。あんた、一体どんな金持ちよ。考えながら食べていたらのみ込むのを忘れてて、口の中が乾いたパンでいっぱいになる。牛乳が欲しかったけれど、休んだ千鈴の分を給食の時間におかわりして飲んだのは私だ。
 それにしても、パンを食べながら門を見ていると張り込みの刑事にでもなった気分。中はさぞかし立派な家だろう。ローションを売るだけでこんなものが建ってしまうのだから凄い。そう、私はこの土地に越してきてローションという言葉を知った。耳年増で口の軽い宮下さんが全部教えてくれた。
「鳴滝ローションと言えば大人で知らぬ者はなし。ひとつ垂らせばたちまち男はいきり立ち、ふたつ垂らせば恥じらう女も色めき立つ……やがて二人は桶の中のうなぎのごとく!」
「ごとく?」
「からみ合い、こすれ合い……」
「それで……?」
「うなぎパイ……」
 そんな時、私たちは決まってキャーと叫んでもたれ合う。うなぎパイはセックスの隠し言葉で通っていて、私もそれにすんなりとなじんだ。浜名湖から北に車で3時間、ずいぶん不便なこの町へ引っ越してきて数ヶ月、転勤族の父をもつ私はいつものようにすこぶる上手くやっていた。どうせ半年後には東京へ戻るのだから、上手くやらなくては損。でも、本当に楽しんで過ごしているのに、いちいちこんなことを考えるのが一番の損だと良く思う。バカみたい。
 地元の名士で県会議員だというのも宮下さんから聞いた。「お金持ちの家」としか表現しない両親よりも、わたしたちは多くを知っている。宮下さんは「じもとのめーし」と意味をわかって使っているのかわからない発音だったけど。しっかしローションを売ってても議員さんにはなれるんだね! とわたしたちはまた悲鳴を上げたりした。
 木製のりっぱな門の脇にチャイムがあった。おそるおそる押す。
「どちらさまでしょうか」
「あの、千鈴、さんの同級生で、竹下といいます。咲坂先生に頼まれたものを届けにきました」
「お待ちください」
 少し間が空いた。そのうち、誰かが出てくるだろうと思って封筒を持ち替えたりしていると、いきなり、
「お入りください」と、さっきと同じ声がして、扉が開いた。
 木製のオート・ロック・システム! 面食らいながらも、来てよかったと思った。宮下さんに教えてやらなくちゃ。どうせ宮下さん、この家にお呼ばれすることなんて一生無いだろうから。
 おずおずと中に入る。庭も広い。外からのぞいていた松が何本も、重なることなく佇んでいる。きれいにカットされて頭や腕にのっけた葉が少なく、私が知っているのとは違う植物に見えた。他にも感じのいい植木がいくつも配置されて、ちょっとした日本庭園みたいだった。池まであるし。1年生ぐらいの大きさした錦鯉がゆったりと泳いでるし。敷石伝いに純和風の木造建築のほうに向かっていくと、間口の広い引き戸の玄関先に千鈴が立っていた。
 美形だけれど、どこか男の子っぽい教室のジャージ姿とうってかわって、そこにいたのは完璧なお嬢様だった。一部をすくい上げて頭の後ろで結んだ髪が、肩先で揺れていた。丸えりがついてスカート部分に飾り気のないひだのあるワンピースは、上品なオフホワイトで、髪を結ぶリボンも同じ色だった。こいつ、家ではいつもこんなかっこうをしているのだろうか。そういえば、みんながあこがれるような、こんなかわいいワンピースを着ている時もあるけれど、いつもジャージを羽織っていた。
 というか、千鈴は休んでいたわりには元気そうだ。
「あれ。元気そうだけど、今日なんで休んだの?」
「熱があったの。もう引いたわ」
「あの、これ……」と、茶封筒を差し出すと、千鈴は目もくれずに言った。
「上がってちょうだい」
 へっ? わたしを家に入れる気か? でも、すでにヘビに睨まれたカエル状態のわたしは、おどおどしながらもついていく。いいかえせないけど、内心は、ちょっと、ムッとしている。でも、今の千鈴、高ビーな感じがとってもお似合い。
 中も木。柱が太い。なんて豪勢なんだろう。拝観料とかが必要な雰囲気。きれいに木目の浮かび上がった廊下がつるつる。新しい靴下でつーっと滑ったら、どれくらい進むかな。
 そこでわたしはぎくっとした。今日の私はお昼休みに近道しようと渡り廊下を靴下のまま歩くミスを犯していた。ちょっと腐りかけているせいで前日の雨をまだたっぷり含んでいた簀の子は、その水気をわたしのお気に入りの靴下にも出し惜しみせず分けてくれた。ランドセルの脇のスペースに丸めた靴下が突っ込まれている。わたしははだし。忘れてた。
 自分の靴の上に立ち尽くしていると、千鈴は前を行っている。覚悟を決めてついていくと、足の裏がひんやりと冷たい。へんぺい足があますことなく冷気を吸収してる。そして本当に、カエルみたいにペタペタ足音を鳴らして、私は歩いた。
 獲物の間抜けな足音に、ヘビが振り向いた。
「スリッパ、あるでしょう」
 びっくりして振り返ったら、上がり框の隅にスリッパが4足ほど並んでいた。ここ旅館? 慌てて二回、大股で飛んで、一つに着地した。これで安心。
「ついてきてちょうだい」
 つぶれた自分の靴をほんわりさせて、ぴかぴかの廊下に鮮やかに刻まれたわたしの無様で貧乏くさい足の裏のあとをさりげなく消して、言われた通りについていく。きっと、この廊下に足あとをつけたのは、後にも先にもわたしだけだろうな。
 さっき、「お入りください」と言った声の主に向かって、千鈴が言った。
「きえさん、わたくしのお部屋に、お紅茶お願いしますね」
「かしこまりました、お嬢さま」
 うへえ、ほんとにお嬢さまだ。きえさん、頭を四十五度に下げて退いた。
「あの人、きえさんって言うんだ」
「そうよ」
「昔の人って、なんか、おもしろい名前ね」
「季節が重なると書いて、季重と読むの」
 瞬間的にステキだと思ったけれど、それよりも、千鈴が学校のように「って」を使わないのにはっとした。「きえさんって」「昔の人って」と連発した自分の育ちの悪さが浮かび上がる気がする。そして、そんな言い方は広い廊下によく響くんだ。わたしも家が広かったら、おしとやかになるんじゃないかな。
 千鈴の部屋は広かった。洋間だけど立派な柱がある。
「すげえ」と、声がもれた。
「座ったら?」
 細いあごでゆったりとした椅子を示されて座る。気づくと抱きしめていた茶封筒を出そうとすると、今度は止められた。
「お茶がきてから」
 やがて、扉がノックされて、季重さんが、紅茶、ではなくてお紅茶とおいしそうなケーキを運んでくる。フルーツのトルテ! わたし、大好き。しかし待て、こんなケーキがいつもこの家にはあるのか? このへんにケーキ屋なんてあったっけか? もしかしたら手作り……?
「ありがとう」
 葉っぱを押し下す妙な容器でお紅茶を淹れてから、季重さんは頭を下げて出て行く。わたし、ぺこぺこと見送る。千鈴は凛と背筋を伸ばしている。そりゃ、毎日こうならそうなるだろうな、と当然のように思った。それに、そんな千鈴はカッコよかった。
 千鈴は、お紅茶を運んできた銀のトレイをドアに立てかけた。
「急に部屋に入ろうとする人への障害物」と、意味ありげに笑う。
 わたしは首をかしげる。急にどうした? こいつのいうこと、意味不明だ。
「誰か入ってきたら困るでしょ。時間稼ぎよ」
「ああ、カツオのバットみたいな?」
 千鈴は微笑する。お嬢様、わかってないな、と思う。
「早く貸して」
 千鈴が命じるようにいった。わたしはゆかりちゃんから預かった封筒を渡す。封をしていないのに気づいて、千鈴は封筒に顔を向けたままわたしをちょっとにらむようにした。
「見た? 中」
「なわけないでしょ、人のもの。あ、でもパンは食べた。牛乳も。でもいいでしょ。だって、こんな良いものがあるのにパンと牛乳持ってきたってしょうがないもんね」
「本当でしょうね」
 パンと牛乳の話、無視か。でも、なんか迫力があるから、こくこくとうなずく。
 千鈴はふっとため息をついて、封筒から中身を取り出した。出てきたのは、一回り小さい封筒だった。中身を確かめた千鈴がつぶやく。
「あの先生も、たまには役に立つわね」
 わたしがわからないのを楽しんでる風なので、それには答えず、ケーキを食うことにする。せっかくのケーキだ。早く食って退散しようと思った。フルーツと生クリームを挟み込んだトルテだった。うまい。スポンジがしっとりとろけそうだし、パインや苺にちょっと酸味があって、生クリームの甘さといい感じにマッチしている。口の中にほんのり味が残っているうちに、お紅茶を流し込む。その絶妙な温度と、爽やかな香りが、風邪薬のCMみたいに喉と鼻に絶大な効果を発揮してじんわり光ってるみたいな、そんな気がして、最高。もう一口。甘いだけの、子どもだましの感じがしない。それだって喜んで食べるけど。
「ねえ、中身が何か聞かないの?」
「へっ?」
 ケーキの世界にいるわたしをじっと見ていたらしい千鈴は、身を正していった。そんなことより、ケーキ、食べないの?
「ふうん。いいこと。あなたが預かってきたのは、音楽会の楽器の分担表なんだから。わかったわね」
 いくらわたしがとろくてケーキに夢中でも、それがそんなものじゃないことぐらいはわかっていた。けれど、とりあえず、食いながら、うなずく。めんどうはごめんだ。それに、シンバルが重たくてうまく鳴らせず、関くんに担当をとられた悔しさを思い出した。
「ケーキおいしかった。紅茶も」といって立ち上がる。
「ねえ、本当に、中の封筒、見てないの?」
 なんでそんなの見る必要がある? というのも面倒で、またうなずく。すると千鈴は封筒をわたしの目の前に突き出した。真ん中に「咲坂ゆかり様」という宛名があった。封筒の下のほうにロゴと「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」の文字。は? さらに封筒の左側に、応募要項在中という赤字。
 まず、ゆかりちゃんが舞台に立っている姿が思い浮かんだが、千鈴に持ってくる意味がわからない。とすれば……。わたしは千鈴を見つめた。
「芸人さんになるの?」
「は?」
 今度は千鈴の顔がゆがんで、久しぶりに学校にいるときの彼女が現れた気がした。
「何を言ってるの?」
「だって、吉本って」
「そうなの?」
「え?」
「先生に、アイドルグループのオーディションをさがしてもらったの」
 ああ。なるほど。確かにそんなのもやってそう。ただ、ゆかりちゃんはやっぱりバカじゃないだろうか。
「単なる運試しよ」
「……」
「自分の家に送ってもらうわけにはいかないの。わたしは、鳴滝ローションの跡取りなんだから。将来はお婿さんをもらって、ここでずっと暮らして死ぬの。決まってる。こんなものに出られるわけないでしょ」
 会社の名前にひやひやする。当然、自分の家の仕事がどんなものかはわかっているだろうに。でも、千鈴の口からその名前、初めて聞いた。
「別に、タレントとかに、興味があるわけじゃないのよ」
 そういう千鈴の顔を見て、わたしは直感的に、うそだ、と思った。でも、まだ黙っていた。
「ねえ、どう思う?」
「どうって?」
「わたし、どのくらいいけるかしら。こういうのって、顔やスタイルだけじゃないでしょう。勉強もできたほうがいいだろうし。習い事だって、ピアノとか、バイオリンとか、フィギュアスケートとか、色々あるでしょう。ピアノとお琴はやってるけど、それで大丈夫かしら」
 何で鳴滝千鈴はこんなことをわたしにいうのだろう。友だちでもない。ほとんど好んで話すこともない相手に。一つ確かなことは、今、千鈴が話したことが、わたしの口から人にもれることがない、と千鈴が考えていること。明日、クラスの子に聞いてみようよ、といったらどんな顔するかな。
 わたしは千鈴の質問に答える代わりに、こっちから質問した。
「何で、学校ではジャージでいるの?」
「楽だから」
「うそ」
「うそよ」
 千鈴は意地悪そうに笑った。それから、ふいに真顔になる。
「だって、うんざりするでしょう」
 そう言った時だった。
「千鈴? いるの!?」
 ドアの外、遠くの方から甲高い声がした。千鈴はあわてて封筒を引き出しの奥の方にしまう。同時に、ドアが勢いよく開く。とたんに、立てかけられていたトレイがはじけとんですべっていった。
「何なの、これ!」
 眉をひそめて入ってきたのは、千鈴によく似た女の人。美人だった。でも、目つきがきつくてちょっと怖い。
「あら、お友だち?」
 じろっと見られて思わず下を向く。
「あっ、すいません、今帰るところです。お盆、変なとこに置いちゃってごめんなさい」
 あれ? 気がついたら妙なことを口にしていた。
「竹下さんのせいじゃありません。お母さまがノックもしないで思いきり開けるから」
 千鈴がすまして言った。
「竹下さんって、じゃあ、高校の、新しい先生のお嬢さんね」
 それは母の仕事だった。やばい、ばれてる。さすが小さな町だ。
「そうよ。でも、1年で東京に帰るんだから、選挙は関係ありません。おあいにくさま」
 そうか、千鈴のお父さんは県会議員だ。それにしても、千鈴、けっこう言う。
「そんなことより、これは何?」
 千鈴のお母さまが突き出したのは、ピンクのポーチ。中からキラキラしたものがのぞいている。
「お化粧品まで入ってるじゃないの。あなた、自分がどんなご身分かわかってるの。小学生が持つものじゃありません」
「あ、それ、捜していたのに。竹下さんのものなの。間違って持って帰ってきてしまったから、だから、取りに来てもらったの」
 あっ?
 けれど、次の瞬間、わたしは頭を下げていた。
「すみません」
 千鈴の母親は、疑わしそうな目で見たが、さらにちょっと顔をしかめて、わたしにそのポーチを渡したのだった。ポーチはけっこう重くて、カチャリと小さな音を立てた。
「千鈴さん、あなた、まだ変な夢、あきらめていないんじゃないでしょうね」
「何のこと?」
「お父さまは、いずれ衆議院選挙に出ることになるかもしれないのよ。みっともないことはしないでね」といって、千鈴の母親は部屋から出て行った。
 足音が消えるまで、わたしは身をすくめていた。それから、成り行きで受け取ってしまったポーチを返そうとした。
「あげる」
「い、いらないよ」
「持ってって。また見つかるとめんどうだから」
 確かに、めんどうだろうと思った。わたしとは怒られ方が、言葉づかいも、内容も、何から何までちがう。お説教に衆議院選挙が出てくるなんて。
「……じゃあ、預かっておく」
「このこと、誰かに喋ったら承知しないから。宮下さんとか」
 本当にそれが不安だったら、こんなことを話しはしないだろうから、千鈴はそれがないことを知っているんだとわたしは思った。案外、するどい。わたしから宮下さんに何かを話すことはほとんど無かったから。
「わかってるよ。じゃあ、ね」
 立ち上がって背を向けたが、千鈴は一緒についてきた。当たり前か。長い廊下を並んで歩いた。お母さんが出てこないか、ひやひやしたけど、ちょっとそれを期待して、ポーチを持って歩いた。
「何で私立の学校じゃないの?」
 ちょっと横を向いて聞いてみた。こんなお嬢様がどうして、あんなところでジャージを着て芋くさく過ごしているんだろう。
「どこにあるの? そんな学校。東京と一緒にしないで」
「そっか」
「ねえ、あなたは、来年の春には東京に帰るのよね。いいね、自由で、好き勝手できて」
「んっ?」
「そうじゃないの。わたしなんて、こんな田舎で、いつもいつも人の目があって、本当になりたいものも人に言えなくて、さ」
「本当になりたいの?」
 千鈴が黙りこむ。やっぱりなりたいんじゃない。そのまま玄関を出た。そこにいた季重さんに頭を下げられた。
「ケーキ、ごちそうさまでした」
 季重さんはにっこり笑ってくれた。
 外に出ると、夜のおとずれが早い山麓のこと、もう暗かった。
 ふいに、千鈴が空を指さした。田舎の空は澄んでいるなぁ、とふと思う。わたしの基準は今も東京にある。濃い群青の空をバックに、山を背にして右の方角にひときわ輝くもの。
「一番星?」
「ううん、宵の明星」
 そして、千鈴はぽつりと言った。
「あたしがなりたいもの」
 明星か。なればいいよ、と思う。美人だし。演技力もなかなかのものだったし。でも、視線を下ろしたところに存在してる、暗くなってさらに広くなったように見える庭や、そびえたつ家を考えると、無責任すぎるという気もした。でも、今日だけでいろいろなことを知りすぎたわたしには、これがせいいっぱいだ。
「ねえ」
 遠くの空を見上げたままの千鈴に声をかけられた。
「これもあげる」
 千鈴が渡してくるものを、わたしも見上げたままで受け取る。何か、容器に入った細長いもの。
「今、ポケットに入れなさい。」
 言うとおりにする。帰りの門は開いていた。
「カメラがあるから、下に着くまで見てはダメ。さようなら」
「さようなら」
 そこでわたしたちは別れた。いうとおりに坂を下ったところで見てみた。最初はなんだかわからなかったけど、「NARUTAKI」って字が書いてあったから理解した。なんていうか、とろとろした水。ひっくり返すと、気泡がゆっくり上っていく。なんであいつ、こんなのわたしに渡すんだ。やっぱり、意味不明。

(つづく)