サッカーシューズをくれてやる

 ぼくの一日はため息が多くなった。生まれたり、ボウリングの最初の一投でストライクを出したりする時は100あると言われる覇気がすっかり無くなり、今も、便所で用を足した後、完全に真っ直ぐ立ってけつを拭いていた。これは、あぶない。
「ピンポーン! 森山くんいますか!」
 その時、玄関から誰かの、ゲーセンのメダルをばらまくようなお下劣な声が聞こえた。
「同じクラスの巣南ですけど!」
 巣南君? そんなに仲良くもない巣南君が何の用だろうか。
「ピポピポピポピーン!」
 連打する音をマネているところからして、急用らしい。ぼくはトイレを出てドアを開けた。
「よう。電気代、節約できた?」
「え?」
「オレの口ピンポンで、電気代助かった?」
「別に、呼び鈴ぐらいで電気代とか……」
「そうか、オレんち、すげえ貧乏だから、電気代に関しては小数第1位まで気になるんだよな。まして人の家だろ」
 巣南君は、濡らした新聞紙を体に貼りつけて秋を生きている。今日も股間や足の甲をひっかいているので、そこだけ地肌が見えていた。
「で、何の用?」
「あ、そうそう。森山くんさ、サッカーやめちゃったんだって!?」
「うん、受験勉強があるからね」
 ぼくは玄関に転がっていたサッカーシューズに目をやった。
「そっか。で、うちさ、かなり貧乏だろ。サッカーやってプロになって暮らしを助けようと思ってんだ」
「南米の子みたいだね」
「森山くん、サッカーもうやらねえんだろ? それで、その、サッカーシューズをさ……」
「欲しいの?」
「いや、欲しいなんてそんな乞食みたいなことじゃなくてさ……」
 と、巣南君はわきの下に挟んでいた四角いものを手に取った。アダルトビデオのパッケージであるとぼくは瞬時に断定した。色落ちしてるし掠れてほとんど見えないけれど、女の人が股を開いていてエロいのがわかった。その中央の誰にもいちばん秘密の部分は、どこよりも真っ白に掠れていた。
 ゴクリ。ぼくは覇気が2になるのを感じたが、ため息まじりに言った。
「いや別にいいよ、そんなの……」
「え、いいの!?」
「え?」
「いいなら話が早いや」
「いや……」
 心なしか、パッケージの色が薄くなった気がする。もう一度言っておこう。
「いや……」
「オレだって、大事に使うし、本気でサッカーやるからさ」
「あのね、巣南くん。ぼくは、サッカーをやめたくなかったんだ。でも、サッカークラブの代わりに塾を増やされて、お母さんに無理やりやめさせられちゃったんだよ……」
「ああ、つらいよな。そういうの聞くと、お金があるのも考えモンだよ。なんていうの、選択肢が増えて、あきらめなくちゃいけないことも出てくるし。もしかしたら貧乏の方が気楽かもな」
「うん、本当にいやになるよ。ぼくは、本当にサッカーだけが生き甲斐だったのに。サッカーを続けさせてくれるっていうから、4年生から塾に通ってたのに」
「そうか……今でもサッカーが大好きなんだな」
「うん、この気持ちには嘘はつけない」
「そっか。じゃあ、あきらめるよ。無理言ってごめんな」
「いやいやいやいや」
「ん?」
「あの、ぼくはさ、そう、だからこそ、すごく傷ついていてしまってて、このサッカーシューズなんて一切見たくもないんだ。色んな思い出がよみがえってきてつらいから」
「わかるよ、森山くん。同じサッカーを愛するものとしてさ」
「逆に、もう、極端に言ったら、切り刻んでしまいたいぐらいだよ」
「なるほどね……」
「うん、なんだろう、もっと究極の理想としては、何重にも人だかりがあって、その真ん中にこのシューズが置かれていて、外からは何にも見えないんだけど、実はずっと色んな人に入れ替わり立ち替わりおしっこをかけられてて、泡立っちゃって近くからでも見えないみたいな、そんな状況が完成形っていう気もするんだ……」
「そんな気もするの……!?」
 巣南君はアダルトビデオのパッケージを逆の手に持ち替えた。裏が見えると思ったのに、また表がこちらを向いた。
「チッ」
「え? ご、ごめんな。森山くん」
「いや、いいんだ。君にはわからないよ、ぼくの気持ちは……」
「オレはそこまで物を憎んだことはないけどさ、金持ちってそういうものなのかもな」
「金持ちだからかはわからない。ていうか、うちはそんなに金持ちじゃないよ。むしろ、君にわかってほしいのは、ぼくは今、そのぐらい傷ついてるっていう、まさにそのこと。だから、コレを君にあげるのにやぶさかではないんだ」
「やぶさか…?」
「もらってくれるとありがたいって気持ち。でもちょっと複雑な気持ち」
「うーん、オレには深くはわからないけど、オレがもらってやるのが、悪いことではないのかな?」
「うん、そんな感じだね」
「そうか、だからタダでいいってことだったんだ。けっこう、複雑な心情だな」
「いや、そういうことでもないんだなこれが」
「ないんだなこれが?」
「もう少しがんばって、再度、考えて欲しい。ぼくはサッカーをしたかったけど、お母さんにやめさせられちゃった。使っていたシューズを見るのは今でもつらい。こんなシューズ見たくもない。誰かにもらって欲しい。そこに君が現われた」
「オレがそれをもらって、一件落着」
「それは貧乏人の飛躍」
「貧乏人の飛躍!?」
「つまり、これをタダであげるということは、今までぼくのやってきたことが何の意味もなかったということになってしまうんだけど、おわかりかなぁ……そうなると、ぼくはなおのこと、胸がしめつけられるような思いがして……」
 チラリとパッケージを見ると、心なしかやわらかい輪郭と背景のコントラストが鮮やかになりつつあった。そして、ムムムッ、あれは……
「マン毛?」
「マンゲ!?」
「いや」
「胸がしめつけられるような気がしてマンゲって……? 森山くん」
 巣南君のきょとんとした顔。ぼくは小刻みに体を震わせ、冷や汗を彼から見えない後ろ半身にトントンと運んで隠し通すと、大きなため息をついてみせた。
「胸がしめつけられる擬音をそういうんだよ……」
「そうなの?」
「大きな辞書にはのってるよ」
「オレ、大抵の擬音はしっくりくるんだけど、今回みたいなのは初めてだぜ。昔の人は何を考えてたんだろうな」
「知らないよ。サッカーを取り上げられてこのかた、ぼくの生活はマンゲそのものだよ」
「そんな使い方もするんだな、日本語ってすごいな」
「早く処理しないとね」
「何を?」
「マンゲも、サッカーシューズも」
 巣南君は大きく目を見開いた。
「そうそうそう、そうだよ! このサッカーシューズがそこに置いてある限り、森山くんはずーっとマンゲのままなんじゃないのか?」
 ぼくは黙って巣南君の顔を指さした。
「はいビンゴ」
「じゃ、じゃあ、やっぱりこれはオレがもらった方がいいんだ。でも」
「ん? うん、うん」
「森山くんの情熱と思い出詰まったこのサッカーシューズは、オレがタダでもらえるほど、軽いものじゃない」
 ぼくは安らかに目を閉じて、その麗しい言葉を聞いていた。
「さ、続けて……」
「だから、オレ、これ持ってきたんだ」
 ぼくは目を見開いた。
 もはや発売当初の鮮やかな色合いを取り戻しているパッケージが、ぼくの目に飛び込んできた。むっちりおっぴろげられた両足をたどっていくほどに吸い込まれそうなあの秘密の部分。掠れた白さではなく、万単位のルクスでまぶい眩しみを玄関にばらまいた。
 巣南君はそれを開けた。
 タバコが一本、入っていた。少しシワの寄った一本のタバコ。
「拾ったんだ」
「そう」
 タバコが取り出され、手渡される。閉じられたパッケージを見ると、真っ白だった。何も印刷されていなかったし、濡れてよれていた。
 ぼくは、シューズをつかむと、玄関の外に放り投げた。バラバラになって転がった。
「やるよ」
 驚いている巣南君を外に押し出して、ドアを閉めた。
「あ、ありがとう!」
 外から聞こえる声は遠い。覗き穴から見ると、貧乏人だからだろう、すぐに地べたに座ってシューズをはき始めた。肘や膝の新聞紙がもう裂けている。
 タバコの先端を親指と人差し指でつぶすと火がついた。ぼくは、玄関に立ち、はじめてのタバコを吸った。それはひどくぼくになじみ、体内に大きく煙を入れると、体の震えが鎮まるように思えた。
「はせ~GOAL オオオ はせ~GOAL」
 外から聞こえる威勢のいい声にタバコをちょっと離して再び覗き穴に目をあてると、巣南君がサッカーの練習を始めていた。
 大きく形をもったツバを吐き、それが落ちてきたところを、ぼくのサッカーシューズをはいた足で思いきり蹴る。ぼくの家の方に向かってそれをやるので、炸裂したツバは全てぼくの家のドアにかかっているようだ。
「それ、巣南君の考えた練習方法?」
 今度はぼくの声がタバコで掠れてしまって聞こえないようだ。
 巣南君は暑いのか、体に貼りついた新聞紙をめちゃくちゃにはぎ取り始めた。ちぎっては投げちぎっては投げ、しっとりと厚みのある紙片を廊下に散らかしていきつつ、人の家のマンションの廊下でほぼ素っ裸になった。
「はじま~り~の~ 鐘が~鳴る~~」
カープの廣瀬の応援歌だね」
 そしてまたツバを吐き、それを蹴る。シューズはもうべちょべちょで、わずか1分ですっかり巣南君の持ち物になっていた。
「オーオーオオ、福田! ゲットゴール、福田!」
 飛沫が一つ覗き穴に飛んできて、モザイクがかかったように巣南君の「動き具合」しか見えなくなったので、ぼくはもう一度大きくタバコをすった。