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「CSR」 (『内覧』より)

 次は2階だった。
 ふとした拍子で彼より先に階段の最初の一段に足をかけてしまい、一段一段の恐ろしく高い急な階段をせき立てられるようにして二階へ上がった。あまりに急で、横向きにならないと落ちてしまいそうな、切り立った崖のような階段であった。上に何があるか、とんと見通せない。
 自分は若い。家を買うという気概もある。息が切れた。後ろから来る視線を感じた。痩せ我慢して無心にのぼり、半分ほどまできて下を見た。彼は4段目のところに座り込んで背中を見せていた。
「休憩するなら、先に行って待っていますよ」
「いえ、行きますとも。今すぐに」
 彼は慌てて体を捻りながらこちらを見上げ、そのまま上ってくるつもりか、一つ上の段に手をついた、ちがった、つかなかった。手は空を切ってまた横へすべった。そのままさらに体は捻られ、剃り跡で青々とした頬の面を狭めながら、再び後頭部を見せたのだ。息つく間もなく顔がぐるりと戻って見えてきて、そこでやっと手をついた。どうも二度捻ったように見えたのである。たっぷり時間をかけたせいで、顔と手をついた階段の距離はひどく近かった。受け口が今にも角に付きそうな程であった。その奥で、右足がキリギリスのように大きく回って壁際におりた。
 体がゆっくりと這い上がってきた。
「大丈夫のようですね」
「今にご案内して差し上げますよ。にしても、あなたはスポーツマンですね」
「いえ、最近、運動不足なのです」
 二階には短く細い廊下にドアが四つへばりついていた。彼と入れ代わるのにも一苦労で、自分が奥に押し込まれる形になった。彼は一番手前のドアに手を掛けて言った。
「ここはCSRですね」
CSR……?」
 彼は間取り図を僕の目の前に掲げた。小さく折りたたまれた紙は一部屋しか見えないが、その中央にCSRとある。
「簡単に言えば、クレヨンしんちゃんの部屋ですね」
「CSって、クレヨンしんちゃんですか」
「ええ」
「Cになるんですか」
「ですね」
「そうか。crayだから…」
「ええ。ただ、もうそうじゃないんです。じゃないんです。クレヨンしんちゃんの間になるはずだった部屋を見ていただきます。まあ、ただの子ども部屋ですよ」
 彼はドアを開けた。外開きのドアは廊下をすっぽり塞ぎ、彼が見えなくなるとともに薄暗い。振り向くと、かすかな光で電話ボックスほどの僅かな空間に閉じ込められていることがわかった。ドアが閉じると、彼の姿は煙のように消え、階段の絶壁が現われた。
 あまりに静かすぎた。
「どこに行ったんだ」
 呟いてみても、何の返事も無かった。
 部屋に入ってみると、何の変哲もない六畳の部屋だった。日当たりが良く、エアコンはまだ真新しかった。壁紙の隅がはがれかけていた。
クレヨンしんちゃんというのはなんだったんですか?」
「ああ、それは西側の壁に……こっちですね、こっちの壁一面に、大きなクレヨンしんちゃんの絵が描かれるはずだったんです」
「どうしてクレヨンしんちゃんですかね」
「シロもですが……」
「子どもにとって、そこで生活をくり返す自分の部屋に、あらかじめクレヨンしんちゃんの絵が描いてあるというのは、いかがですか、地獄のようなものではないでしょうか」
 僕はずいぶん熱っぽく言ってしまった。地獄というのは相当に恐ろしいところである。慌てて訂正しようと言葉を探った。
「もちろん、シロもですが…」
 僕の疑問を彼は深刻に受け止めてくれたようだ。腕を組んでくれたのが嬉しかった。彼は不服そうな顔で大きな埃のかたまりが群れをなす床を見ていた。ずいぶん人が入っていないのだろう。
 彼は僕に視線を移した。その目を離さないまま、ゆっくりと白い壁を指さした。
「でも、描いてないんだからよくないですか?」
 僕は何も言い返せなかった。清々しくもあった。
「この家の一番のウリということだったみたいですけどね」
 彼は書類を何枚かめくり、ためつすがめつした後で言った。
クレヨンしんちゃんの絵が?」
「ええ」
 なるほど、家など、要はただの箱で、部屋があってキッチンがあってトイレがあって風呂があってという基本構造は、どれをとっても大差ない。しかし、クレヨンしんちゃんの絵があるかないかというのは、大きな差異である。どうせかまびすしく喧伝するなら、外張り断熱とか、耐震構造とか、実感のできない絵空事を言われるより、そういう極端で一目瞭然な、大きな違いの方がアピールするところがあるのかもしれない。家など、誰がどんな風に建てようとどうせ家だ。震災にみまわれても更地の中に建ち残った家が話題になったが、なるほど、あんな風に生き残ることに何の意味も得も無い。ただ生き残ることを目的にしたならば。
「最後に描いてもらって、落ちないように加工する予定だったんですが、誰だったか、作者が亡くなって、立ち消えになったんです」
「山から転落…でしたっけ。あの人は」
「こわい話ですか?」
 彼は眉をひそめ、怪訝な顔つきをした。彼の顔があまりに自然に動くので、僕は怒り心頭である。それは突然、スイッチを入れた電気ケトルのように、熱こそある一定の力で出力されているが、水はまだ一向に温まっていないという類のものだったので、仕草に表すことなく抑えることになった。人が死んだのだから怖い話に決まっているので、何を言っているんだと思った。もっと穏便に、落ち着いていたいと思った。
「持っていたデジタルカメラに、崖の上から撮影してた、転落する前の写真が残っているらしいですよ」
 僕は悪を正す気分で僕の知っている事実を公表した。そして、一生懸命、そのニュースについての記憶を辿り、言うべきことを揃えにかかった。。
「本当ですか?」
「嘘を言うはずがないじゃありませんか。人が死んでるんですよ。ニュースで見たんです」
「嘘だと言ってください。こわいんで。あんまりですよ」
「いえ、ダメダメ。ダメです。私ね、その写真を見たんです。はっきりと見たんですよ。嘘じゃない。断崖絶壁をのぞきこむような写真です。黒い、ごつごつした岩肌が、はるか下まで続いている。あの人、そこから落ちたんですよ」
 写真など見たことがないはずだった。あるかも知れなかった。引っ込みがつかなくなったので言った。彼が真実から目を逸らしているから、こうなるのである。彼が逸らした分を、ちょうど僕も逸らしたのだ。
 彼の背中は少し丸まってきた。効いている。怖いらしい。あれがくるまるまでもう一息だ、と僕は思った。壁紙の黄色さに気づいた。
「即死だったそうです」
 口ではそう言いながらも、即死だったのだろうかと迷った。それとも、落ちてしばらく苦しんだ…?
「即死…」
「いや、わかりません。私は、落ちてしばらく苦しんだと見ていますが……」
「即死ときた…そうか……」
 即死の方がよかったらしい。呆けたように彼がくり返すばかりなので、優勢の僕としては、何か言わなければならぬ必要を感じた。
「あのクレヨンしんちゃんの作者が、ですよ!」
 家具のない閑散とした部屋であるため、かなり大きく響き渡った。つづけて、取り返しのつかないような沈黙が迫る。彼は落ち着いて、ペン先が飛び出たままのボールペンで頭を掻いていた。
 こんなに大ごとになってしまった今になって、作者の名前が皆目わからないのが、かなり大きな心配の種となって僕に襲いかかってきた。怒りがおさまるにつれて金の話がしたくなった。
「考えていかなければいけない問題です。ところで、その分の値段はきっちり引かれているんですかね?」
「と言うと?」
クレヨンしんちゃん分は」
クレヨンしんちゃん分?」
 僕が言いたいのは、クレヨンしんちゃんを描いてもらうためのデザイン料だとか著作権料だとか、諸々の金額のことである。死をもって描画計画が頓挫した以上、その額面は、家の価格から引かれているのだろうか。僕がそう考えているうちに口を開いたのは彼の方だった。
「引かれていますよ。240万ほど」
「240万!?」
「どうかしましたか」
「いや、ちょっと」
 僕は可笑しくてたまらなかった。
「この業界は狂っているんじゃないですか。クレヨンしんちゃんの絵に240万など。私はラッキーでしたね。払わなくて済んだんですから」
「いえ、不動産業界が狂っているわけじゃあないのです。かといってこのメーカーさんが狂ってるわけでもないんです。もちろんクレヨンしんちゃんが狂っているわけでもありません。誰も狂ってなどいないのです。誰一人として」
「でも、240万円ですよ。クレヨンしんちゃんの絵が。ピカソ並みだ」
「狂ってなどいませんよ」と彼は笑った。
 こうなれば意地である。僕も、彼が笑っているという事実がおかしいのだと笑って見せた。クレヨンしんちゃんの絵は240万円もしないという理はこちらにある。相手にはそれがわからないらしい。是非ともわからせたいと思った。
「だって、家を建てると決めて、クレヨンしんちゃんの絵をつけられるオプションがあったとして、240万円と聞いたらみんな諦めるでしょう」
「その場合なら、30万円ぐらいあれば描いてもらえるんじゃないですか。相場から言って。オプションとしたら、そうなります」
「30万? なら、240万というのはなんです?」
「この家の場合はそうだという話です」
「なぜ?」
「さっき、あなたは狂っていると言いましたが、何にも狂ってなどいないのです。僕は、至極、筋の通った話しだと思いますよ。住宅メーカーでこの値段だと決まったんですからね。全ての数字に、それに関わった全ての人間の目が通されているんです。無論、会議もみっちりしています。あなたも僕もいないところでですが、僕にはわかります。それが常識ですから。システムがそうなのですから、見逃す見逃さないの問題ですらない。今現在、それ以外のものごとの進み方、というのはないのです。特にこのような大手の住宅メーカーの建て売りではね。ここまで、膨大な人のチェックを経て、計画した通りに事が運んできたのです。だからこの家が売られて、あなたが内覧しに来ている。つまりどういうことかと言うと、あなたが狂っているんです」
「なんですって?」
「この240万円は、どんな鬼の首でもありません。この家を形作る、いわばレンガの一石です。これを手にとってまじまじ眺めて妙に思ったあなたはわりあい探偵かも知れません。ところが、こんなものは残念ながら何の証拠でも無いのです。強いて言えば、あなたが探偵であるという証拠になるでしょうね」
 説明する彼の顔に吹き出物が多くあることに気づいた。眉毛と目の距離が狭い、なかなか渋い顔立ちだ。荒れた口角の破れ目ができており、醜かった。どうやら50代の中年男。完膚無きまでに仲介業者であった。
「それから、こんな風に話をしていて、ふいにピカソの名前が出てくると、なんだかとつぜん興が冷めるようですね」
「ピカソという固有名詞が通俗性を孕んでいけないんですね。私は恥ずかしい名前を出したもんだ。すみません」
「仕方がないですよ。僕だってそう言ったでしょう」
 彼と僕は許し合った。きっと、僕がぴりぴりしていたのは実にパブロ・ピカソのせいだという感じが唐突に胸に去来してしっかりと根付いて離れなかった。やっと納得だ。ピカソという膿の玉のような言葉が飲み下せずに喉にひっかかったせいで、彼にあたってしまうとは、ほんとうに非道い、不味いことだと思った。彼が多く喋ってくれたおかげで、もっと不味い、非道いことを言わずに済んだとわかり、安堵の息をつくことができた。
「とにかく万事わかりました。あなたが説明上手だということも。私はあなたを信頼しました。そして納得しました。これでよかったのです。クレヨンしんちゃんの亡霊に金を払ったのでは割に合いませんからね」
「金を払わずに済んでも、亡霊はいますよ」
 彼は笑いもせずに言って、ゆっくりとした足取りだけで僕を部屋の外に促した。