川辺

 本町の住宅地を抜けて、赤と白の電波塔に見守られた大きなカーブを曲がっていくと、そのまま燕川の土手の犬走りにつながる。立ちこぎのマウンテンバイクを走らせて堤防までの坂を一気に上がると、見上げていた青い空が緑と川をしたがえた明るい景色に変わり、風が強くふき始める。
 背の高い草で川とへだてられた河川敷には、サッカーのグラウンドと野球のグラウンドが何面もつめこまれて、むこう岸の土手はきれいな黄みどり色の帯をすぐそこの海の方までのばしていくところだ。絵の具の水入れにできるような青色をした大きな川を見下ろしながら、ぼくはすぐ反対にある坂をくだる。ぐんとスピードが上がる。上がるけれど、チャックを開けている半そでのパーカーの背中が大きな風を受けて重たくふくらむせいで、思ったほどには前に進まない。
 もどかしい気持ちのまま坂をくだりきってしまうと、背の高い草が視界をさえぎって川が見えなくなる。川沿いの荒れた道を自転車でがたがた進む。カッパが子どもの足をひっぱって川底へひきずりこんでいる「きけん」の立て札を二つ通りすぎて三つ目。自転車をとめると、それを待っていたかのように汗がふき出た。
 ぼくの背丈の倍ほどもあるたくましい草。びっしり生えているが、この立て札の前だけ根元が折れて、V字の道ができかけている。けもの道っていうんだろうか。いくつもの茎の折れ目からしみ出した白い汁が玉になって、草のにおいがつんと鼻をついた。土手の上に人がいないのを確認してから、自転車ごとつっこんだ。
 ちょっとだけ涼しく感じたのは最初だけ。汗が出る場所もふさがれるようなすごい湿気にどっと包みこまれて顔がほてる。昨日の夕立を吸った土がまだやわらかく、前輪が沈みこむ。聞こえるのは、葉がこすれる音と自分の息づかいばかりだ。うっすら道ができているとはいえ、生い茂った太い茎、とがった葉がからだ中をたたいてくる。ドラクエで毒の沼を歩いて、一歩ごとにHPが減っていくようなあの感覚。スポークの間にかたい茎が引っかかって、かまわず押すと、いやな音を立てて切れた。
 草の沼を抜けると、広い川岸に出る。気持ちのいい風が吹く、そこに雪がいた。
 雪は川辺に腰をかけて薬をぬっていた。緑と白が切り替わったキャップを体のそばに置いている。袖の短い黄色いTシャツからのびたうでを、手のひらを上に向けてさらにぴんとのばしている。もう片方の手で腕をしごくようにちょっと乱暴に往復させていく。白い薬は手が通りすぎるごとにうすくのびて、雪の白い、でも健康的な肌になじんで消えた。
 ぼくは、雪が足の方にとりかかるまで見ていた。ハーフパンツの右すそをももの真ん中までたくし上げたところで、とつぜん、雪がこっちを振り返った。
「おそくない? みんな、もう船を運ぶ準備してるよ」
「うん、ちょっと」
 オナニーしてたらおそくなって。そんなことをちょっと考えながら、ぼくは雪のすぐ後ろまで来ていた。見下ろす形になって、あわててしゃがみこんだ。そこまで行くと、川の底が見える。
 雪はかまわず、足を上げて手をすべらせている頭をこっちに傾けてきた。揺れながら落ちていく、少し茶色がかった髪の毛から、甘いにおいがした。
 雪は、船を作り始めてかすり傷が増えてきた足をぴんとのばして、人差し指ですくった薬をふくらはぎに置いた。引っ越してきた頃から体育の後なんかにぬっていたけれど、何の薬かいまだに知らない。聞いてはいけないような、すきとおった迫力が雪にはある。くらくらするほど白い足をぼくはじっと見た。
「おまえ、宿題終わった?」
「終わってないよ、塾もコレも、いそがしいもん。自由研究、はやくしないとなあ」
「自由研究か、おれもやってないな」
 ぼくは雪の二の腕、ほとんどわきのところを、それぞれの手でとった。
「あ、ちょっと」
 ほんの少しつめたい、ぬるっした肌ざわり。その奥に力を入れると、細い芯みたいなつかむところがある。ぼくはそこをしっかりつかんだ。ぴったりくっついた手と腕のすき間から、薬の粘り気が苦しそうにうっすらにじみ出てきた。
「なになになに、なに?」
 雪はぼくに押されて、前屈するような体勢になって笑うような声をもらした。
 ぼくは腕をにぎったまま、すべらせて、背中を押してやるような体勢になると同時に、白い首筋に顔をつけた。髪の毛は汚れひとつなく熱くなっていた。甘いにおいが強くなる。息を吸い込んでも、その香りはいくらもなくならないで、ぼくの口と鼻をうめつくした。
 雪が何か言ったけれど、ほとんどのどのふるえになっただけで、ぼくには伝わらなかった。ぼくにはなにも聞こえなかった。
 ぼくは薬がうつってべたべたになった手を、雪の前で組んだ。ぼくの腕にはさまれた雪の細い体の向こう側で、あぶらじみた手と手をすり合わせる。ぼくの胸と雪の背中はぴったりと重なっている。髪の毛よりずっとあつい。痛いところをずらそうとして、雪が体をねじりながら上下に動かした。まるでランドセルを背負い直すみたいだ。一瞬はなれて、またくっついた。そのたびに、雪のにおいがする。
 遠くで、アツシやタロウのかけ声が聞こえた。協力して船の下に丸太をかませているんだろう。かまわず雪の肩にあごを置くと、川の水面に目が落ちた。そばで見ると、みどり色に見えるが、底を見つめると、黄土色に変わる。潮が満ちているらしく、泡のういた水が、ゆっくりと上流へ向かって逆流している。
 手を洗わないといけないと思った。もう手の甲まですっかり薬がいきわたっていた。ぼくはその両手を、水泳の飛び込みのように川の方にのばしてから、肘をおって、そのまま雪の黄色いTシャツの裾から手を入れた。厚手のTシャツが。
 雪の体がびくんとはね上がって、ぼくを突き上げる。ぼくは雪の肩にあごを押しつけて、獣医のように力をこめた。
 雪のおなかは、手入れの行き届いたやわらかい木製のまな板のようだった。とてもつめたく、不思議なぬくもりがあった。そこにぬるぬるした手を並べて、ぴったりとつける。雪の息が止まる。とてもあつい。じりじりとした光のなかで何かがむせかえる。
 手を上にすべらせていくと、雪は、ためていたあつい息をもらした。その熱がぼくの耳のすぐそばのあたりにずっととどまる。いつの間にか、雪の汗が薬とまじってぼくの手はびしょびしょにぬれていた。こわばらせた指をなめらかな肌の上にすべらせると、小さな、水っぽい音がシャツの中から聞こえた。
 ぼくの手が少し段になっているあばら骨をこえた。
 そこに雪の胸のふくらみがあった。
 ん。
 雪がうめく。ぼくはその小さなものを、ぴったり手のひらに包みこませた。そして、そのまま押してみる。手のひらに返ってくるわずかな力にしたがうと、元通りになる。つめを立てるように指をかまえると、しめった肌同士がゆっくりとはがれる静かな音を手のひらに感じた。
 ぼくは何度も何度もそれをくりかえした。雪はされるがままにしていた。海水をふくんだ川のあぶくはどんどん増えてきて、ぼくも雪も押しだまっていた。陽ざしがとてもあつかった。とうとう夏休みが終わるんだと思った。