核心の在り方について

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 このあいだ、どろりさんの「海」を読んでいた。この作品は、主人公に気持ちが寄り添うようにできている。それで最後に、その甲斐なくという言い方になってしまうが、此の世の無情みたいなものに触れることになるのである。
 欲というのは絶対に他人のためにならないのだが、それは欲というのが動物的なものだからであって、動物は、欲深くない限り生きていられないから欲深くあるだけである。
 ところが、動物的なところから精神世界を得た人間的な世界では、恥とセットになって欲を抑えることが美徳に成り得るので、恥ずかしさや向上心から律儀に欲をセーブしようとがんばれる気持ちになる。
  しかし、欲をセーブする美徳を得なかった人たちから、動物的にバカにされる。バカにされないまでも、動物的に引け目を感じる。そんな時ばかりは、精神世界が雲散霧消して動物に過ぎない自分が露わになり、もともと動物なものだから、根本的に負けという感覚が拭いがたく、またそれを精神で整理しようと試みていること自体がむかつくのである。
 確かに、まあまあ落ち着け人間的には立派じゃないかという声もあるが、立派だったら何か見返りがあるかというと、必ずしも無く、というか大体無く、今後一生の生き方の見本市であるモラトリアムの時代をどう過ごそうと、つまり、動物的に過ごそうと人間的に過ごそうと、「海」で突きつけられるのは200円が大概である。
 ここには全くもって「物語」にあるはずの因果が働いておらず、因果の働かなかった哀れな青年へと気持ちが寄り添うように書かれている。

「僕はロミオとジュリエットが死んだときよりも、むしろマキューシオが死んだときの方がかわいそうだと思ったな。(中略) 説明するのがむずかしいな。彼は すごく頭が切れて愉快なやつです。問題はですね、誰かが殺されたりすると――とくにすごく頭が切れて愉快なやつが殺されたりして、それが誰か他人のせいに よる ものだったりすると――僕はけっこうとり乱しちゃうということなんですよ。ロミオとジュリエットの死に関していえば、あれは少なくとも自分たちのせいみた いなもんだから」
サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』)

  この頃、人が複雑になったか、そうなった社会に適応しただけか、人は、「実は」得してるヤツを許さず、様々なる場面で、最もツイていない判官を熱心にさがそうとしているように思える。そのくせ、実は得しているヤツになろうとし、自分こそが判官ではないかと考え始めるようだ。
 だから我々、こういうホールデン君の気持ちはよくわかる。
 「海」では主人公が一番ついてなさそうなので、たいていの人が主人公を見ることになる。主人公は死んで肉になってしまった。なってしまったと言うが、それは彼が望んでいたことだ。それなのに、僕なんか、それがあまり良くないことで、そうなったのも他人やこの世界のせい、みたいな気がしてくるのである。
  どろりさんに聞いたら、あの主人公にしたら、肉になれたというのは社会に認められたということで、嬉しいそうだ。200万円で買われていく同輩を見ている 顔も、「これから世間に認められて価値を決められる楽しいことが起こるのに、なんでそっちに」という気分で呆気にとられている、という想定で描いていると教えてくれた。主人公にとっては見返すチャンスがやっと訪れるのだが、その価値が、心の中でバカにしていた奴と同じ200円だったわけだ。しかし、1万倍の値で買われようと、1万倍よい人生という風にはならないのであり、こんな議論をすること自体が我々の恥をますます強固に構成していくと言ってよい。
 あーあと思うが、別に主人公とは7ページの付き合いである。読む前は主人公について何も知らなかったというのは当り前だが本当で、その全てを7ページの間に知るのである。
 バルガス=リョサがこんなことを書いている。

 小説を書くというのは、ストリップのダンサーが観客の前で衣装を脱いでいって裸体を見せるのと何ら変わりがないように思われます。ただ、小説家はこれを逆 の手順でやるのです。ショーがはじまったときは素裸だったのが、小説を書いて行くうちに、自らの想像力で作りだした厚地のきらびやかな衣装を裸体にまとわ せ て隠して行くのです。この手順が複雑で手が込んでいつものですから、作品ができあがってみると、その豊饒な才能を発揮して空想の人物と世界をつくりだした のがどの部分なのか、また、自分の空想を刺激し、意欲をかき立てて物語を書くように誘った記憶の奥に秘められた――そして、人生がもたらしてくれた――さまざまなイメージがどれとどれなのか見わけられなくなっているのです。
(バルガス・リョサ『若い小説家への手紙』)

  「海」は小説ではなくマンガであるが、こういうわけで、読み終えた時にもう一度、頭に戻ってみると、それはもう一つの衣装、人格を有している。だから、もはや裸でなくなった作品は、二度と同じようには読めない。それで良いこともあるし、悪いこともあるだろう。
 「海」は非常にわかりやすいきらいもある、人生の一面についての寓話であるけれども、だから、人生について考える必要が無ければ取るに足らないものになる。また、人生について考えるでも、非常にわかりよいものであるがゆえに、語りづらい。「海」が誘うのはため息であって、解釈の言葉ではない。逡巡さえも許さない、世の中の有り様のように単純明快な残酷さが故に、何か言う意気は上がらない。
 どうにもならないことを取り上げてみて、どうにもならないなと途方に暮れたりするのは、それこそまさに人生の様相だろう。自分の好きなものを好きになって好きなことをやるだけのはずなのであるが、人間関係はそれを許さない。それは、自ら好きこのんで許されないように振る舞うこともあるし、やむにやまれぬという場合もある。
 そして、その一切が、世界の中で、同列に語られるので、何ひとつ確信が持てないのだ。

 私の面白いと思った本は、芹川さんは余り、いいとはおっしゃらず、芹川さんのいいとおっしゃる本は、私には、意味がよくわかりませんでした。私は鴎外の歴史小説が好きでしたけれど、芹川さんは、私を古くさいと言って笑って、鴎外よりは有島武郎のほうが、ずっと深刻だと私に教えて、そのおか たの本を、二三冊持ってきて下さいましたけれど、私が読んでも、ちっともわかりませんでした。いま読むと、またちがった感じを受けるかも知れませんけれども、どうもあの有島というかたのは、どうでもいいような、議論ばかり多くて私には面白くございませんでした。
太宰治「誰も知らぬ」)

  ここで、無論、「人生」は有島武郎の方である。乃木希典の殉死後すぐの『興津弥五右衛門の遺書』、またその改稿を経て、それまでの小説観を改めて歴史小説を書き始めた鴎外の方を、この女性は好む。後を読むと他に好むのは、志賀直哉菊池寛の短編小説とあり、これによって、芹川さんには「思想が貧弱」と笑われてしまう。別に何が好きだっていいのに、笑うは笑うのである。 精神が肉を食らうように感じる。
 太宰が志賀直哉を嫌いなように、嫌いは嫌いで構わないし好きは好きで大歓迎だが、それが人間関係の中に浮かび、媒介となり、そんな意識なくとも、人間関係を拵えるのか作品を語るのか、どっちが目的なのかわからなくなることがあり、その気まずさに、猛烈に逃げ隠れたくなる。
 これは幾分、意図を持ってしまった例になるが、上の芹川さんは、好きな男のために有島武郎を読んでいることが直に暴露される。
 超主観的であるか、超客観的であるか。
 そのどちらかでないと作品について語るのに不的確ではない。ような気がする。そして、そのどちらも、この人間という思考体の曖昧な出来や、われわれが生きている世界を考えると、不可能だということは間違いがない。潔癖症のようなものである。
 主観はある点をもって客観的になり、いつの間にか主観に裏返る。メビウスの輪の上で戯れているに過ぎない不可能。そして、それさえ仮構の中で意味づけされた仮定でしかない。意識や意志、または意味づけされたものとは無関係に、世界は動く。意識や意志、または意味づけされたものが追いかけるだけ。マルクスが見ようとして、実際に見たであろう、マテリアルの世界である。
 日によって、感想を嬉々として話したり、淡々と記述してみたり、ぽつりとこぼしてみたり、言いたくはないと言いながら吐き出してみたり、どう形容したっていいが、全部が全部、自分も含めて本当に無能なのではないかと思える。何も言い得ず、全てお前のせいだから勝手にやってろ、と言われれば、どんなにいいかわからない。そのために、自分だけの感想を探している。真実の語り方を探している。
 人に何か語り得ることを語ること自体が無様だと、こんなこと思うのは自暴自棄の果ての勝手だが、そういう人間に残された手立てというのはなんであろうか。この先に何かあると思って来たのではないのか。

 僕は勝海舟という人が、わりあい好きなんです。福沢が『痩せ我慢の説』を書いたとき、勝は「毀誉は他人の主張、行蔵は我に存す」というようなこと を言っ た。自分のやったことはやったことで、それに対する評判は人の主張だという。したがって、「我にあずからず、我に関せずと在候」と言っている。知ったこと ではないというのでしょう。これは明快なことだと思う。保守とか進歩とかは他人の主張であって、私にはどうでもいいことのような気がする。そういうことは 分類にすぎないのですから、それにとらわれるのは実にバカバカしいことでね。
 私はね、人間の好みがあるとすれば、その人がどれくらい柔らかい 心を持っているかということ。たとえば吉本さんは、非常にこわい論争家ということになっている。世間で僕も論争家のはしくれのように考えているらしい。し かし僕は自分を論争家だと思ったこともないし、あなたを論争家だという理由で尊敬したこともない。あなたのお書きになったものには、しばしば共感するけれ ども、それはつまり、いがを一つむくとクリがあって、クリをもう一つむいてみると、ホクホクした実がある。そういう柔らかさがあなたの核心にあることを感 じるからです。そういうものがほの見えるから信頼できる。
江藤淳「文学と思想」『吉本隆明対談選』)

 こんな甘いことを言っているから、奥さんが亡くなってやりきれず自分も自殺してしまうのだろ江藤淳、と思う。漱石が好きだ、漱石は読むものの心を暖かくする、という江藤淳のこと、そのようなコミュニケーションこそ理想と捉えていたのだろう。そうだよなと思う。ただ、甘いとも思う。でも、言わずにいる方がずっと甘い。耳がきーんとする。
 ホクホクした実というのはそういう比喩でしか表現しようのないものだが、感得はされよう。理解というか、了解はされよう。僕にとって、吉本隆明の中にソレがほの見えるかといえばちがうと思うが、ほの見える人というのは確かにいて、そういう人を信頼できると思える。
 なぜ、他人のいがの中に、実の中にあるものが、露見しないのにわかるかといえば、自らもまた、そういうものだと信じているからだろう。誰かの核心に、自分と同じものを信じてみているのだ。そうでなければわかるはずがない。それを甘いと言うのだ。
 その核心がどう表立って発現するのかは、リョサが小説を挙げて言うように、人によって異なるだろうが、誰もが誰も、誰かと、その核心を共にしていると信じようとしている。自らの核心を信じ、それを自分の外の世界に探しているのだ。
 桑田佳祐が「信じたものはみなメッキが剥がれてく」「喜びを誰かと分かち合うのが人生さ」と歌うのは、その失敗と成功の体験のことである。信じたのは自分だから、相手を恨むこともできない。本気になったら本気になっただけ、こんなにつらいことはない。それでも、分かち合う時の喜びを目的にできるかというのは、気質や根性のようなものによって分かれるところだろう。ホールデンを、サリンジャーを思い出すといい。最近、出版された伝記を読んだら、だいぶ、お気の毒さまであった。
 厳密に考えれば考えるほど、語り得ない真実を目に見えないまま思い知る方法を取ろうとする者ほど、それを信じる方が困難になってくる。
 バタイユが死者に花を手向けたネアンデルタール人から考えたように、我々の間のどんな交流(コミュニケーション)も、ある根本的な差異を除き去ることは不可能であると思われる。あなたが死ぬとしても、死ぬのは私ではない。私たちは、あなたも私も、非連続の存在なのである。
 そんな諦念を最終的に保証されている場で、自らにも判然としない自らの核心を、他人の中にさがすということの行状から滲み出る往生際の悪さはどうだ。
 でも、それをしないことには落ち着かない。
 そういうことをずっと考えてきたのだが、自分の場合、核心とは、以下のことに尽きる気がすると最近気がついた。 

『無能だというのは』と彼は考えるのだった。「小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことなのだ」
チェーホフ「ヨーヌィチ」)

 おそらく、核心を共にしておきたいと願いつつ、核心を隠し置くことを願っているのである。この矛盾をなんとかしたいと思うが、核心に名前をつけるべきではないという矜恃もあり、この「三人称」をなんとしても死守しなければいけないと考える。だから自分でも意味が捉えかねて、ますます手の施しようが無い。
 まして、自分は常に自分に見透かされており、秘密を持つことは叶わない。だからせめて、何の意味もないことかも知れないが、せめて煙に巻こうとして、三人称を保ちゆきたいと考えるようだ。
 三人称を一人称に敷衍し、肉を食って生きるような精神を見るとたまらなく思えるが、どうせ食わなければいけないのだから、草を食ったって同じである。ベジタリアンと同じ謗りを免れないまま一人遊びするように苛まれて、当て所なく何事もなく日が暮れる。
 問題は、問題かどうかわからないが、核心が動物的なものであるのか、精神的で人間的なものであるのかということで、それを知りたい気はする。せめてその核心には、死んだ後でも生き永らえて欲しいと願っている。
 歴史に残った「動物」などいないから、それは取りも直さず、人間にならなくてはいけないということだと思うが、こんな半端な核心を持ったまま人間になるのが、永遠に途方に暮れ続けることだというのは、そんなことぐらいは自明である。それだから人間である、という答えが来ても、何の解決になりはしない。うるさい、と思う。

 何やら怪しげなことを言うなら、人のほとんどの核心に、「愛されたい、愛したい」ということがあるかもしれない。世間を見ると、どうもそう考えられてならない。交流分析の用語であるストロークと言ったほうがいいかも知れないが、実感としては「愛されたい」と思うのでそう言うことにする。
 現実だろうと、ヴァーチャルだろうと、この「愛されたい、愛したい」という誰しものこだわり方によって、どんなにさりげなくやろうとも、みんながマトモでないように思えるのだが、その悪戦苦闘こそ、現実のバランスを作っていることも事実である。満員電車のように、立つことなく、立つという形に収まって、小競り合いもありつつ毎日を運行している。
「海」には愛情が直接には描かれないが、将来を考えたり、海にはしゃいでみたり、また落ち着き払ってみたり、歯を食いしばって新聞記事を読みふけったり、他人をくだらないと呪い続けたり、事あるごとに人を馬鹿にしたり、言い返すこともなく涙をにじませたり、退屈そうに働いたり、そういう登場人物の一人一人が、「私は愛されたいし、愛したい」と心の中でくり返している、気がする。その装いはさりげない。さりげないが、そのさりげないことが、むしろそれを明らかに示すための賢明かつ懸命な手段として選び取られたものである。そのはずなのだが、結実しない。
 「愛されたい、愛したい」ことにおいて、みな正気を失っているが、正気を失うからこそ、本当の幸福でなく、相対的な幸福で、少しばかり人生を輝かしくすることができる。人よりフォロワーが多いとか、平均より年収の多い恋人がいるとか、いいメシを食っているとか、子どもが他家より優秀だとか、サブカルチャーについてより知っているとか、人より多く傷ついたとか、そんなことでいいのである。
 そして、またそれが、愛され、愛すための免罪符となる。免罪符の数と愛の量が比例しなくても、それがまた、正当に愛されるために交換可能な免罪符となり、このような何の得も救いもない自転車操業をしながら、落ちる人は谷に落ちていく。
 そこから離れたければ、山へ行って霞を食っていればいい。自らを卑下し、むき出しにした孤独でもって甘えかかるよりずっといいはずだ。
 引用してばかりでずるいが、ワイルダーの言である。

 芸術家とは、最上の生活は如何に生きねばならぬかを知っていて、自らがいかに拙い生き方をしているかに気づいているものだ。芸術家とは、自らがその生き方で失敗していると知っていて、しかも何か美しいものを創り出すことによって、その悔恨を癒している者である。ところが俗人とは、生き方を誤っているので はないかと疑いながらも、ゴルフや恋愛や商売で成功を収めれば、それで結構なぐさめられるような連中である。

 こういう断罪するような言葉は、今はあまり好みではないが、引き写し用ノートの1冊目のはじめの方に書いてあったから、こういう言葉が好きな時期だったのだろう。自分の下手くそな文字に(ワイルダー)とだけあるが、どのワイルダーかわからない。ビリー・だろうか。ソーントンの方だろうか。『大草原の小さな家』のワイルダーではないと思う。
「何か美しいもの」は霞のようなものであると思うが、実際、それで生きていくのは並大抵のものでない。多くの人はそういう態度をとっているに過ぎず、表面的には仙人を気取っていても、しばしば、容易に、回りくどく愛されたいだけにも見え、その通りに持久戦で敗北し、山を下っていく。
 しかし、それがその通りだとして、痩せ我慢しながら山に上っていき、我慢を貫いて、再び帰らなかった人のことを何と形容するのだろうか。その心をどうやって知るだろうか。こんな時代に。
 とりあえず、そういう誰かの、何にも還元されることのなかった美しいものが、人目につかずに眠っていると思うのが楽しい。新たな想というようなものがどこかで密かに練られていると思うのが楽しい。健闘を祈りたい。やがて静かな眠りに就くまで。
 何が言いたかったかわからなくなったが、もっと人間ができたら、真実が、人生がもたらしてくれた様々なイメージについて、もっとよい語り方ができるだろうかという感じを持っている。