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隅田川に雲がなければ

 30分前、僕と真月は両親と兄夫婦を、真月にとっては両親とおじいちゃんとおばあちゃんを玄関で見送った。そのとき僕はサリンジャーが「ハプワース16, 一九二四」で書いていたことを思い出していた。つまり。一番すばらしい小説の書き出しは、家族で出かけようというとき、みんなが誰かのろまさんを待っている時の、気楽で待ち遠しがっている、その姿勢の描写であると。
 惜しむらくは、僕は壁に手をついてさっさと出かけていく皆を見送り、さんざん皆に誘われるのを意固地に断わったせいで不機嫌になった真月は、僕の服の裾を引っ張って部屋の方ばかり見ていたことだ。そこにはせっかち者しかいなかったし、誰もが、待ち遠しいとはちがう理由でその場を離れたがっていた。自ずとこの文章の出来も知れるというものだ。
 彼女はさっき、物心ついて初めての花火を聞き、見ることになった。肝心の花火はマンションの奥にすっぽり隠れてはいたけれど。
 紐で引っ張ると波打つような素晴らしい動きをするカタツムリのオモチャ、その紐のあざないを夢中で解こうとしている時、部屋の外の奥まった所から唐突に響いた爆発音に驚いた真月は僕を見上げた。僕はちょっといたずらに笑ってみせた。
 僕たちはふたり黙って手を取り合って、ベランダに出た。窓を閉めていて気づかなかったけれど、外は風のおかげで涼しく、僕とちがって柔らかい真月の前髪の一本一本がはためくようだった。真月の愛らしさの名残があるガニ股、それがぶら下がるように抱きかかえてやり、そこで彼女は、光のもやが波紋のようにマンションの両脇に滲んでは消えるその濃さや淡さとして初めての花火を見た。
 その時の真月はなんともいぶかしげな顔をしていた。
「なかなかいいものだね」と僕は言った。「5年前は、あのせいたかのっぽのマンションがいなかったから、花火はぜんぶ見えたんだ。そしたらみんなここにいて、君も、さっきみたいに行く行かないだの騒がずすんだんだけどね。花火、見たかった?」
 真月は力強く首をふった。先ほどの丁々発止の大騒動が尾を引いているらしい。
「いっしょ」
「いっしょ?」僕は間抜けなことに、自分に言われたんだと思ったんだ。
「私、せいたかのっぽと年がいっしょ」
「ああ」僕はうめいた。「そうだね、一緒だよ。同じ5才。向こうはだいぶ発育がいいね。ライトもあんなにたくさんついてる」
「ねえ、そこに立たせて」
 真月は僕の腰ほどの高さのロッカーを小さな足で空を蹴り蹴り示した。母さんの園芸用品がごっちゃになって、扉を閉める習慣も忘れられてしまったロッカーだ。僕の見立てでは、その上に立つには真月の頭は大きすぎる。ピタゴラスイッチよろしく、柵の外に乗り出した真月の頭を重心に一回転して落ちていくところを想像した。それで次の偶然がすぐに押し寄せて人生が続いていくなんて耐えられないような気がしたんだな。
「そこに? ちょっと危ないな」
「お願い、立たせて」
「いや、よくないよ。真月」
「だめ」
 仕方ない。僕は真月のわきから手を離さずに下ろしてやった。
「それに震えてるじゃないか」
「ううん。震えてなんかいないわ。ほんとうよ」
「無理しちゃダメさ。無理を通すのはよくないよ。うまくいったとしてもね。この前、一緒にパプアニューギニアのおさるのテレビ見ただろ。負け知らずの若いおさるが、ほかの群れからやってきたボスに自信満々けんかを売って」
「ヤング」
「あいつそんな名前だったか。まいったな。それでさ、かみつかれるはひっかかれるは、大負けしてぼろぼろになって群れを出て行っちゃって、つかず離れず群れのあとにくっついてくるだけになっちゃって。あんな風にひとり背中丸めて木の実食べたくないだろ」
「ボスの名前は、バルガスよ」
「うん、あいつ強かったな。どっしり構えていばらないし、立派でえらいやつだったね」
「私もそうよ。だから離してみて」
「いや、足がすくんでるよ、バルガス。いや、ヤングかな? 落っこちちゃうぞ。いいから降りなよ、真月」
「わたし大丈夫だってば!」真月はうるんだ瞳を投げかけた。「ほんとによ。××。ねえってば」
「いや、降りた方がいいよ」
 僕は真月を持ち上げて抱えこんだ。彼女は僕との友情に免じたか、何も言わずに従った。
 花火は相変わらず、大仰な音を響かせながら、色とりどりの光の裾だけをマンションからのぞかせていた。
「本当にちょうど見えないんだ。真月、あの、同い年のせいたかのっぽがいなかったらって思うかい? あいつがいなければ、私は花火を見られたのになって」
 ぱらぱらぱらと空で火薬の弾ける音が聞こえた。
「思わない」と真月は強がって言い張った。「ぜんぜん!」
「そうだね。きっと、あの真月と同い年のマンションの反対側、こっちから見て向こう側には、間近で花火を見てる人がいるにちがいないよ。なんせ、みんな気になってしょうがないんだ。あの、音や光を出して現われて、またすぐまっくらな空に消えて行くものがね。それでこぞって出かけていくわけさ。お父さんもお母さんも、おじさんもおばさんも、おじいちゃんもおばあちゃんも行ってしまった」
「××も見たかった?」真月は花火の方を見て言った。
「それがわからないんだな」僕も花火の方を見ながら答えた。「あいつをみんな見たがっているね。僕は見られなくてもぜんぜんかまいやしない。でも、見たってかまわないよ。真月がいなかったら、みんなと一緒に出かけていって、もっと近くで、下から見上げていただろうね。わたあめなんかちぎりながら、かき氷をつつきながらね。それがどんなものかも知ってるつもりだよ。すごくいいもんだ。でも、そんなこと考えてもしょうがないんだ。僕はね、誰かといる時は、自分がしたいって思うことなんかしたいと思わない」
「したいことしなかったら、だれかにとられちゃうのよ」真月は無茶に首をひねり上げて僕を見た。「幼稚園で、ウォーリーの本とられたの」
「あとでさがしてもウォーリーはいるよ。みんなが盛り上がって、誰も見向きもしなくなって、開きっぱなしで放っておかれた本を見てごらん。ウォーリーはいるんだよ」
「さがしてみる」
「うん、そうしてごらん。何かするのに今じゃなきゃいけないなんて、ほとんどはただの思い過ごしだよ」
 それがわかったら、君も世の中に残されたたくさんのものを読んだり見たり聴いたりするようになるだろうね、と言うのはやめた。説教くさくなって困る。ただ、真月が唇を動かしながらひとりで読むところを思い返していた。
 真月と僕は飽きて中に入った。部屋に入ってややすると真月は寝てしまった。最初はリネンのクッションを抱いてソファの上で円を描きながらむずむず動いていたが、口の端に微かに残っていたらしいミートソースが全てクリーム色の生地に拭き取られる頃には、僕の隣で寝息をたてていた。後で僕が小言を言われるに違いない。
 僕は真月が力なく抱え込んでいる赤茶色い紗のかかったクッションをゆっくり抜き取って手近に放り、その柔らかい少し汗ばんだ腕をとって持ち上げた。そこにもう一つあった同じクッションをそっくりそのままはさみこんでやったあと、腕を元通りに置いてやった。
 僕はさっきまで家族で食事を囲んでたテーブルをぼんやり見ていた。段取りが良くきれい好きの一族のこと、食器はもう全てシンクに片づけられていた。みなが気まぐれに食べ残したポップコーンだけが青いランチョンマットの上に置いてある。一つつまんで掌の上で転がした。
 ちょうどこんな具合さ、と僕は思った。いいかい真月、君もまた、いつまでもポップコーンの種じゃいられないのさ。黄金に輝いて透き通る無邪気さがそのまま頑なさであるような夢は数年も経てばおしまいだよ。此の世では、永遠にこのままでいるんじゃないかと凛としていたものが、簡単な熱でいびつに弾けていくんだ。拍子抜けするほど、何の予兆もきっかけもないよ。気づけば、お肌の調子に目くじら立てたり、我が理想の洋服のことで気を揉んだりし始めるわけだ。あとは、手近な男の子と待ち合わせてみたりね。希望と現実と友人関係の板挟みで自分の進路を選んでみたら、女友達とLINEかなんかで申し合わせてランチに行ったりするようになって、馴染みたてのお酒に酔いこんで楽しみながら、またぞろ自分にぴったりの男の子が現われる確率にため息をついたりさ。そして君は、誓ってもいいが「みんな」のことを考えながら、憂いに沈んでいくだろう。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。つまるところはこんなことを考えてね。とかくに人の世は住みにくい。映画館のポップコーン製造器だよ。君が「プリンセスと魔法のキス」を見に行ってはしゃいだアレさ。まったく、一緒くたに入れられて、押しのけ合いの弾け合いなんだ。じゃあ隅でじっとしていようと思っていても、いつか弾けてしまうのさ。そしたら、出る幕のない体を見えない壁に押しつけられてみじめになるだけなんだから、そういう僕の言ってることもまともに信じちゃいけないよ。でも、僕の言うことに意味があるとするなら、唯一、みじめにならない方法を教えてあげられるとすれば、そうだな、君がすばらしい人間になればなんの心配もいらないということだ。虐げられている同級生がいるとするね、もし君がどうも美少女に生まれつかなかったなら、その子が少しでも利口になるようにしてやりなさい。君が器量のいい女の子になるなら、その子に微笑みかけるだけだっていい。その姿を誰かに見られることで問題は解決に向かうかも知れないけれど、それを期待しちゃいけないよ。恩着せがましくしたら、美しさも正しさもみなおしまいなんだ。そういうものをキャラメルソースみたいにまとうのでなく、君の中にしまいこんで、それに気づく余裕がない人にはそれを分け与えて、それに気づいてくれる人が現われたら、深く、潔くその身を預けなさい。自分を悔やんだり、何かを恨んだりなんて、つまらないことしちゃいけないよ。その約束さえ守ってくれたら、ガッツとでも表現するような肉体的勇気を美徳として賛美することも、慎ましさのレプリカに君の優しさを巻き上げられることもないだろう。何を思えなんて君に指図する気はないんだ。日本の青年が横たわったローソンの冷凍庫、アフガニスタンの少女が乗り込んだ爆弾を積んだ自動車。周囲の騒音に耳をふさいで、その二つの扉が閉まるとき、内側から聞こえる音だけを想像しなさい。いいかい、真月。弱さも強さも君の中にある。その中でも一番いいものを生かすんだ。僕が教えられるのはこれぐらいで、しかも、正しいかどうか自信がもてない。誰から見ても、そして何より僕から見た時、君が世界でいちばんすばらしい人になり、その当然の権利として、幸福になるよう祈ってるよ。真月、すばらしい人になるんだよ。
 もう、やめておこう。僕は手に持っていたのを一つ口に入れると、ポップコーンの皿をマットごと引き寄せた。一粒転がり落ちて食べる気もしなくなった。億劫に腰を曲げて拾ったポップコーンを戻しかけた時、真月のソファから落ちた足が目についた。僕はそれをシャツの胸ポケットにしまった。キッチンに行ってコーラを1杯飲んだ。カウンターからのぞくと、真月の頭のてっぺんだけ見えた。
 その時、みなが帰りを知らせる様々な音が聞こえてきた。チャラチャラ鳴るのは鍵のついたキーホルダーで、玄関の電気をつける音、急ぎ靴やサンダルを脱ぐ音、そして籠ったような話し声。そういう馴染みの音。
 そのどれも、真月を起こすには至らなかったらしい。頭の位置はさほども変わらない。
 誰かが廊下を歩いて近づいてくる。この速いテンポで真っ直ぐ踏みしめるやり方は父特有のものだ。
 これが僕の家だ、と僕は思った。この家で僕は少年時代を過ごした。今は戸主が住み替わって、真月が育ちつつある。兄だけがずっと住んでいることになる。家具は変わってもテレビの位置は変わらない。あそこを向いて、僕たちは夜を過ごしていた。真月がここで眠っている。花火は見えなくなり、僕は時々帰ってくる。僕の家だからだ。
 最初に顔を出したのはやはり父だった。
「おかえり、どうだった?」
「すごかったぞ」
 これ以上は何も出てこない。口数が多い方ではない。
「真月は?」
「ソファで寝ちゃったよ」
「必要ないのに子守ばっかり上手くなるな」
 他のみんなもどやどやと帰ってきて、リビングは一気ににぎやかになった。真月は早速みんなに取り囲まれて、僕がいるとこからはすっかり見えなくなった。なんだか救助されてるみたいだったな。
 すばらしい人にならなくったって怒るもんか。今の君を覚えているからね。そして、僕も、そこにいる誰も、今の君みたいだったなんておかしいだろう。僕はこんどは一人ベランダに立った。見下ろすと、川辺から戻ってくる大勢の人が道路をいっぱいにひしめいている。そこを突っ切ろうとする車が難儀して、赤い光を点灯させながらのろのろ進むが、一向に道は開かない。
 僕はロッカーに手をついて、背後のかすかな、血の繫がった者たちのおしゃべりを聞きながら、みんなが花火を好きな理由について考え始める。