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うんち数えて

 朝6時、大きなバスのエンジンは既に動いていたが、相変らずターミナルに停車したままだった。バスガイドが乗客全員分のうんちを数えていたからである。
「1、2、3、4、5…」
 平日ということもあり、ババア8、ジジイ2の割合で埋め尽くされた2列シートの背もたれからしわしわの雁首が咲いている。
 スピーカーから響く声を聞いてバカだから伸ばしている首のところ、ほお骨からのど元へ通るようにすぼまりながら何本も埋め込まれている棒状の組織は謎めきながら吐き気を催すようだ。
 皆のうんちは出入り口の真横にある台に置かれたクーラーボックスに入っていた。ボックスはそれほど大きなものではなかったが、驚くべきことに、一つ一つ触れることなく、全うんち量が収まっていた。揃いも揃って41人。したもしたりて41本。誰も力をゆるめてなどいないのに、である。
 みなのうんちを数えているバスガイドにはこれといった相貌が無かった。全くののっぺらぼうではなさそうだが、見ていると、何もついていないじゃないかと拍子抜けになる。ただし、一応その顔についているらしいのか、うんちに顔を向けていた。左手でマイクを添え、右手の指をさし、一つ一つ数える。
「7、8、9、10。大きなこと」
 誰のうんちかな。わしの? ジジイ達は胸を高鳴らせてバスガイドの顔を見上げていた。その顔は下ネタに照りつき払って、うんちを数えるバスガイドの表情というか雰囲気は、やるせない。しかしまた、窓からの陽光を浴びてうっとりしているようにも見えた。よくある女のヒステリーで突如怒り出しそうでもあるし、嘆き、悲しんでいると言っても差し支えないところもあった。何しろ、何もないからわからない。
「11、12、13」
 そこでバスガイドの勘定が止まり、足下から体を揺らすバスの震えが急にしゃしゃり出てきて響いた。
 ガイドは一つ、ため息をついた。そして彼女は話を始めた。
「お客様のうんち、これを仕事のたびに、一つひとつ数えるのも、これでなかなか、くたびれて、骨が折れる作業。どういうわけか、指先が、目立って疲れる。きっとこれは、男の仕事。でも、はりきって、数えなければ、いけない」
 独り言に、車内は少しざわついた。後方にいたババアが、さも、聞こえないねと不平を言うように身を乗り出した。自分のおばあちゃんだったら最悪である。
「家へ帰ると、心に鬼が現れたでしょうか、吹き出物が一つ、二つと、うなじにふくれる。髪を下ろしちゃうと、このオデキ見えなくなる。それで誰も、知らなくなる。そうしてまた、朝が来る。うんち数える朝日がのぼるのだ。14。ああ、これはまるで、がまがえるの痰壷」
 そこでバスガイドはいったん空を仰ぎ、指さしの手をほどいて二度三度、体温計のように振ると、二つに折ったハンカチをスカートのポケットから抜き取って、指しゆびを包み込んだ。指先を捻り上げるように拭いて、また元のスカートに滑りこませる。
「15個目。つぶれた蜂の巣。田舎の山形県で、目を細めて、二階の窓辺で、遠くの、すくすくに育った、畑を眺めるようには、とてもいかない。こんな、ひどい、まがまがの形を見るのだ。一休み」
「ガイドさん、音楽でも聴いて、気分転換して下さいや!」
 今にも卒倒しそうなバスガイドを見て、姿勢のいいジジイが、起立して発言した。みな、拍手で賛意を示す。
「無理せず、竹内まーりやでも聴いて下さいや!」
 バスガイドは色白の細面でにっこりと微笑みかけた。
「もったいないお言葉、ありがとうございます。でも、15個目で、そんな弱音を、吐いたら、ここから先が、うんとつらくなる。自分で選んだ仕事ですのに、そんなにめそめそ見えた、自分があさましい。弱い、おどおどした人を、みんなでやさしく、いたわらなければいけないと、願ったを、間違いとは思わないけれど、どんなに苦しい淋しいことにでも、立派に、堪え忍んでゆこうというのも本当。だから、優しさを頂戴して、身に沁みてしまったら、自分は何にもしなくなる。よい居心地になって、それがあべこべによくないのです。だからがんばります。16、17」
 そこでくらりときたバスガイドは、手近のパイプにすがってなんとか踏みとどまった。心配そうに腰を上げた最寄りのババアを制し、続ける。
「優しさ。優しさとはなんでしょう。この間も、先輩の、飯倉さんのお宅に、うかがった。飯倉さんのお宅の、すき焼きは、おいしい。中学生の息子さんも、心から、笑って食べていた。おだしを、あんなに、ネギやお肉がお風呂につかるように低く低くして、ぐつぐつ煮込むのだ。おだしがしみたら、具材の色が、下半分だけ、変わって、しんなりとしてきて、上半分は、相変らず、はつらつとしている。味付けは上手で、私、平気な顔していたけれど、大ショックを受けていた。うちのやり方は、ずっと、間違っていたのかな、お父さん、あんなに美味しくもないすき焼きを、わざわざ家族がそろう、お休みの日をねらって、日の高いうちからお買い物、明るいうちからお台所に立って、和気藹々、はりきってこしらえて、それをみんなで、美味しい美味しいなんて、お箸を集めて、幸せだけれど、もっと美味しいものの前で、とてもみじめだと、そんなことばかり考えた。それで、飯倉さんは、私の側へお肉をお足しになりながら、私に話しかけたけれど、聞いていない。本当に、どうしようもない。私は、なるたけ、人の迷惑にならないよう、私のことばかり、おちおち、おちおち、眠るように、考えてきたけれども、自分のことを考えるのが、いちばん、真実いちばん優しくないことだと、その時やっと知ったのです。おそいおそいと、言っても、おそい。うんちは何個目です」
「18、18」
 我先にと答えるババア。思い出せずに呻いたババアや、腕組みのジジイも、うなずいた。はやる気持ちは応援の気持ちである。話も長くなってきたし、早く、バスを動かし、信州へ向かいたい。長く生きていればそんなこともあるだろう。早いところ気を取り直してがんばってもらわなければ。
「18、19。腫瘍の兄弟。ああ、心持ちが、爽快になるよう、弾むような、舶来の音楽でも、聞こう。もう、弱音をしまうのも、面倒だ。本当に、ごめんなさい」
 バスガイドは細長いイヤホンを内ポケットから引き出して、貝殻の小さなピアスのついた耳に突っこんだ。大きく息をついて、瞳はわずかに生気を帯びた。
 ジジイたちは若い女のその仕草にまだ寛大であったが、ババア連の眉間には、こんなに僅かの間に不信の念が芽吹いていた。前方の時計を見やり、バスガイドを見やり、腕時計を見やり、またバスガイド。それを何度もくり返した。窓の外を見ていたって、もう30分も同じ景色だ。
「20、21、22」
 バスガイドはまた数え始めた。ババア達はひとまず矛を収めたが、次に何かあれば、当然の権利を主張しようと考えていた。文句を言ってやろう。しかしこのまま、もたついて味噌はついたが、ともかく数え上げてくれれば信州だ。二度ほど行ったことはあるが、何度行ってもよい、それが信州だ。どこぞのそばが美味いのである。
 しかし、ぬぐえない不穏な空気のまま、その時がやって来た。
 はたとバスガイドの手が止まり、両手の指先で口元をおおい絶句した。
「今度はなんだ?」
 バスガイドは音楽を聞いたまま、目もくれずそのままである。
「耳のものをとらんか!」
 逆鱗に触れたか、一瞬にして怒りを燃やしたジジイが叫んだ。
 バスガイドはイヤホンを耳から外したが、気もそぞろに、そのままおっぽり出した。重力に任せてコードが垂れ下がり、イヤホン部分が制服の金ボタンにカチンと跳ねて、大人しい振り子になった。
「み、みなさんのうんちが」
「糞がどうした!?」
 怒声。
「みなさんの、うんちが、動いて、数えられない」
「は!?」
「どこまで数えたか、わからなくなってしまった」
「つまり?」
「また、はじめから、数えないと」
「ふざけるな!!」
 客の怒りが爆発した。
 バカにしている。うんちが動きました。数えられません。出発できません。これではいつまでも、信州に行けないではないか。そんなに数えられないうんちをした覚えもない。旅行前の気持ちのほくほくに免じて、甘やかしていればこのざまかと、普段の、家でサポーターつけて寝起きしているだけなのに損得勘定で組み上がってどうにもならない心の内がばりばりと立ち上がり、同じ音を立てて、強張った腰がバスガイドに向かってやにわに伸び上がった。
「ちゃんと仕事をしろ!」「最近の若い女というやつは!」
 諸兄もまた、このジジイババアと同じように、信じられないに違いない。しかし、この時、確かに、クーラーボックスの中ではうんちが動いていたのである。じりじりとタニシのようにうんちは動いていた。証拠に、今はうんち同士、気軽に、仲よさそうに、くっついていたし、驚くべきことに、既に壁面に登りかけているうんちまであったのである。いっそそのままがんばって、ボックスの縁からうんちが顔をのぞかせれば、信じてもらえたろう。しかし、うんちのスピードはあまりに遅すぎた。
 そして、これが最も重要なことであるが、一度こちらで請け負ったうんちを決して客に見せてはならなかった。
 見せれば永久追放。鉄の掟である。この辺りの社会の根底にはびこる事情については、この業界に限ったことではないのだから、むしろ皆さんの方がよくご存知かも知れない。
 伸ばした腰をまた折って、狭い通路に歪な列をなして押し寄せる沢山のババア、時々のジジイに気づき、バスガイドは怯えたような顔つきを浮かべた。蓋の開いたクーラーボックスを抱えこみ、一度、我関せずと真っ直ぐ前を見ている運転手を振り返ったが、なんともない。何も起こらない。時間を無駄にしただけである。
 そこを狙った先頭のババアの染みだらけの手の一搔きを間一髪でかわすと、クーラーボックスを両手で持って、ガイドはバスを飛び出した。階段を飛び降りた反動で蓋が音を立てて、黄色い臭気を噴いて、閉まった。
「コラ! 逃げるな!」
 もちろん聞かず、ガチャガチャとロックをかけながら、うんちを抱えて東京の、朝方の、、まだ車通りのまばらな駅前の、広い道路の真ん中を走り出したバスガイド。
 それを目で追っているうちに、逃げる物を追いかけようという人間の習性にほだされたように老人たちは一致団結した。
「取り返せ!!」
 促されて素直に出発したバスがバスガイドを追いかけ始めた。
 大きなフロントガラスの中央にバスガイドの後ろ姿を捉える。スクリーンは激情をエスカレートさせた。
「轢き殺せ!!」
 数十年も生きてきてこんな台詞はあんまりであるが、確かにそう言ったのである。そうだそうだと応えたのである。誰が誰を笑えよう。
 奇怪な行動をとるバスガイドにも付近を走る何台かの自動車は平然と走行している。
 彼女は抜かされようという時、そちらを見たが、ちょうどガラスが濡れたように光って車内の様子はわからない。自分が空虚で無意味に思えてならなかった。走りすぎる車の方が、はるかに立派な意味をもっている。
 大型バスのこもったクラクションと、重苦しいエンジンの唸りが地を這って、バスガイドを追い立てる。
 ああ、いやなことになった、とバスガイドは思った。
 でも、しょうがない。このまま、バスの先に立って、高速に乗って、そのまま信州へ、みなさんをお連れしようと、私、決心した。いつの間にか、うんちは、硬くなって殻を閉じたよう。走るたびに、箱の中、ごとごと鳴る、この音を頼りに、信州へ参ろう。そしたら、許してもらえるだろうか。でも、そんな希望もぜいたく品だ。殺されちゃうのも仕方がない。でも、信州へみなさんをお連れしたら、私は、仕事をおしまいまで、がんばったのだと、胸を張って、安らかに、死んだってかまやしない。でもああ、早くも、息が、切れる。