友人訪問

 時流れて有りや無しや志半ば、途轍も恥なくジジイと変じた私ですが、ハイパアヨーヨー・ステルスレイダア一つ持って池尻君の宅を訪ねようととバスでもって馳せ参ずらんと試みるも、何分今度が初めての事でバスの乗り方一つ皆目見当がつかず非常に骨が折れ、ようやく乗車したる後、一銭も払わぬまま目的の停車場まで着くに至っては仰天不安の虫と成り、ところでジジイということで運賃は安く上がるようです。腰もノオトルダムのせむしの糞掻きのように非道く湾曲しておりますから、よちよち歩いて他の乗客に多なり大なる御迷惑をおかけしまして、このとおり頭は明快に回ってババア連中からも一目置かれたる様な矍鑠の日頃ですが、昇降の昇はともかく降ときたら一筋縄ではままならず、バスの些か高大なる昇降段から降りることも満足に叶うまいて、挙げ句の果てに、投げ入れた小銭の賑やかなる落音に二つ遅れて屁まで放いてやっとバスを後にしました。停車場から五分歩くと俺ん家と池尻君は言うのですが、毒された牛歩老歩の二つ足では定刻に辿り着くはずもなく、しかも一期の境を超えてジジイとなって後はもう時間などあって存無いもの、自分が五分来たか一時間来たかも判然とせず、まして五分でいかほど一時間でどれほど道行くものか人様に尋ねるまで予想だにせぬ有様で、先日も至極手近に見かけた赤いポストを視認して然る後に反吐が出るほど歩いて今が限りとポストの事など露忘れて家の近くまで着かなんと立ち止まったかとぞ思いし刹那に己が頬に冷たい深紅の大勢力を感じた時など、何が何だか画伯つの丸の表したる所の猿男児の如く誰に気取られぬ空屁を放いて、これ幸いと手中のTSUTAYA DISCASの紺碧の小封筒を投函致しました。嗚呼真かかるよしなしは只合掌して御母堂に座して二階から落としたグラタン皿の落下の様をはらはら空妄して過ごすのと大差無く、もう時も身体も記憶も虚空に失せて稀に切れ切れ閃くような間歇をずぼらに生きて居るばかり。先程のバスに於いても乗り降りの節の記憶のみ残滓を浮かべ、この点滅の間に間に直に鬼籍に入るとも知れず、毎時毎時思い出すように今は斯うと戯れ身を切り崩して暮らすのも道理に通じた事で御座います。実を申せば老い先短さに池尻君に会しておかねばならぬと決心した次第で、もうタグホイヤアの左時計に照らせば今の徒然の過ぐる間に一時と一刻も歩いていたようです。目前の表札を見ると何たる僥倖か「池尻」と彫られ在るあなあさましの豪栄門に、いでやきよらの絶佳邸、機械仕掛けの呼び鈴を鳴らすとあの調子で「入れ。庭で待ってろ」と池尻君の寄る辺ない声音がするので、棒閂の外れた門を一念、老体に鞭打って押しすがりやっとの思いで入りましたら間髪入れずに大きな吠え声が遠い耳にも打ち入って、見れば、狼のような銀毛を纏った溌剌たる大犬が此方へ向かひて飛び掛からんと二足で立ち上がり、清潔な白い堂々たる腹を見せております。せむしに成り果てた自分とどちらが人の様をしているか心許なく犬畜生相手に恐縮し、彼方が首輪でつながれている事のみこそ心強く、比して何とか方々自由に動き回れることにのみ自信を得る他に万策尽きて吾は人なり人だ人だと繰り返していると、はて、どうも犬を繋いだ紐がついぞ見えず、皺に沈み込んだ眼に眼鏡を強く押しつけたところで見えぬものは見えずその内、犬の方から此方へ駆け寄ってきて死待ちに良い案配に差し出すようなこの細く貧しい筋張り首に飛びつき一つでかぶりつき、殺す前から乾ききったひがひがしい屍肉を食べることだにせず遊び散らして眠りこけるのではないかと恐れ戦き老者の震えに生に取り付く意味を悪戯に足していたところ、玄関から池尻君が出てらっした。昼最中に大殿籠り過ぐしてか青いピジャマ姿で目をこすり、逆手で下腹部をそだたきつつ出でらっしゃる。「池尻君、あの犬は一体どうした絡繰りで繋いでおるのですか?」と聞けば「見えないのか。つくづくジジイだな」と仰る。「万に一つもこの終わり眼には…」「ストラグル、ストラグルってあの犬ね、俺んちのな、あれを繋いでいるのはな、女の髪を集めて撚ってつくった特別なリードなんだ」「女の髪みたいな柔い物であんな大犬を引き留めておられますか」「そんなものってお前、色んないい女のロングヘアーの髪をよって拵えた紐は象も繋いでおくことができるんだぞ。お前いくつになった。そんなに腰の曲がった昔の人間なのに、んなことも知らないのか」「知りませんでした。象を一所に繋ぐのは太い現代風のワイヤアのようなものでも用いなければと思っていました。先日八十八歳になりましたが女というのは不思議なものですね」「不思議なもんじゃねえよあんなもん。乳首ねじって中指ドン、ちょっといじってチョチョイのポイよ。八十八歳の春だから、米寿のお祝いをしないといけないな。お前、童貞か?」「はいそうですね、すみません」「そんなにジジイでか。そろそろ大学行こうかな」「こんなにジジイで」「もうなんか、そうなると関係ないな。煩わしいという気すら起こらないだろうな」「そうですね」「二十歳そこそこ一応元気に生きていて、モテない童貞なんじゃかんじゃと書きくどいてる駄々羅な奴もいるけど、言うが愚かじゃと腹の腹から思うな。珍しもないね。そう考えてみたら二十一世紀からこのかた、ずっと退屈な世の中が続いているんだよね。こんな時代だからこそジジイの意見を聞きたいな。二十世紀ってどうだった」「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は、という歌がありますね。二代の今上天皇を敬い粗忽な蜻蛉と生きてきましたがどうだか」「後鳥羽上皇だな、ジジイが粋がって暢気なもんだ。昔のそういうのが猪口才くて一番いけないね。説教臭くて、こうなってくると長生きしていることに舌打ちが出てしまいそう」「この歌は承久の乱の前九年に後鳥羽院が歌ったものでして」「だから。興味が無。幽遊白書を読んだことは?」「ありません」「ほら、ろくでもない。どうして自分が知っていることに頼んでぺらぺらと口が動いてしまう。名こそ流れてなお聞こえけれ、黙っておいたらいいんだよ。どうせするなら、もっとみんなが喜ぶセリエAなどの話をした方がいいよ。あと格闘技ね」「善処します」「ヨーヨー持ってきた?」「はい、これです」ウエストポヲチからヨーヨーを出すと、「うし、帰っていいぞ」とあじきなく仰る池尻君ですが、気づけば碌に回らぬ舌で迷惑千万折々話している間に、辺りはすっかり暗くなっていたのでありました。池尻君のみ私の話をまともに聞いてくれるので私は本当に感謝しております。貪欲に引かれ不定なことに頼みをかけて我が手に持ったものを取り外すなと伊曾保の訓戒に言うように、去り際に情けの焔が立つのみ期して、ゆめゆめ無様な真似はすまいと潔く頭を更に地まで下げ、悲しからまし別れを告げて、はかばかしからぬ足のすさびの運びもて宅を後にしようとすると、呼び鈴の機械装置から「気をつけて帰れよ」と声がしました。「池尻君、やっぱり童貞なのが、こんなジジイになっても気になるのです」勇気を出して申しても返事が無いので暗い道を這って帰りました。