音楽・準備・輪廻

 楽器がいっぱいつまった音楽準備室で、ぼくと大橋くんは息を潜めていた。
 隣の音楽室からはピヤノの音が聞こえてくる。
 曲にならない、途切れ途切れに一つずつ鍵盤を押す音だ。でも、一つ押すたびにハクいスケの笑い声が聞こえてくるので、ぜんぜんさびしく感じないどころか、なんだか少し勃ってきちゃったぞ。
 でもお邪魔虫はもう一つの低い声。チンチンに響く通りのいい透き通った声はぼくにはすぐにわかった。
「大橋くん、月島さんはつきあっているのかな。相手は誰だろうね」
「もっとヒソヒソしろよっ、中丸くんっ」
 大橋くんは見るからに苛立っていた。月島さんの抑えた笑い声や「ちがうよ」という楽しそうな声が聞こえるたびに、大橋くんの眉毛は大忙しに動き、ときどき一回転した。
 大橋くんがこんなこと(人形劇みたいなこと)になってしまうのにはわけがある。そもそも、ここに来た理由がそうだ。月島さんのリコーダーをなめりしゃぶるのに飽き足らない大橋くんは、吹奏楽部に所属する月島さんの担当楽器、ホルンに目を付けた。「なめごたえがちがうぜ」と10分前に笑っていた大橋くんがなつかしいし、気の毒だ。
「表面積がちがうのだぜ」
 今度は、ソの音が聞こえた。幼少からの英才教育によって絶対音感を持つぼくは、聞いた音をすべてドレミファドンで表すことができる。だから、月島さんと誰かが「ソ」をいいことにいちゃいちゃしているのがわかってしまう。
 ぼくは、月島さんのリコーダーを浸したお湯にポカリスエットの粉末を入れて翌日のリトルリーグに持ってきて飲んだりバッターボックスに入る前に頭からかぶったりする大橋くんほど月島さんが好きなわけじゃないけど、やっぱり複雑な気持ちになった。
「黒いとこ押してみようか」 
 また月島さんの声が聞こえた。
「この、上のところにいっぱいあるやつ」
 それから、ファ#の音が聞こえた。笑い声が輪唱のように追いかけてきた。あんなもの何がおもしろいんだろう。何がおもしろいか味わいたいとぼくは思った。大橋くんはもっと思っていただろう。だから眉毛が更に回った。そのため、大橋くんの眉毛はとうとう取れてしまった。
 しばらく聞いていてわかることだが、だんだん、押す鍵盤のオクターブがあがってきている。左から右へと、音と二人のアツアツぶりが、音階を上がっていく。こころなしか月島さんの息があがっているし、声もかすれてきているし、ぼくの勃ちもよくなってきているではないか。
「ねえ、今度は二個、同時に押してみようか」
「二個……!」
 と歯ぎしりしたのは隣の大橋くんだ。好きな子のリコーダーの穴にうどんを通して、しばらく遊んでから食べる様子をぼくに撮影させて、部屋を真っ暗にして見ている大橋くん。大橋くんにはそんな特技はないはずなのに、鼻がカクカク動いて、すぐ取れてしまった。普段動かさないからこういう時に動かすとすぐ取れてしまうのだろう。取れた鼻は、音も立てずに木琴の下に転がっていった。
 そんなこと(鼻がとれたこと)はおかまいなしに続けざまに三回押されたミとシの音。今までで一番の笑い声。ぼくは見ないようにしていたが、一瞬、視界の隅っこに赤いものが落ちたので、今度はきっと口だろう。
 その時、なんだか艶めかしいため息が、まるでその吐息がぼくの頬にかかるように聞こえてきた。
「お、大橋くん、なんだか、やばい雰囲気だね」
 答えがない。ああそうかと思ってぼくは黙った。もう口がなかった。
 ピヤノの音は息つく暇もなかった。鍵盤の一番右のゾーンにある、甲高いドレミファソー、ソー、ソーの音が壁を突き抜けるようにぼくらの耳に届いた。
 今までにない音の洪水に驚いてぼくが大橋くんの方を見たとき、目はもうなかった。大橋くんの顔には、牛乳を飲んだときにクラス一できるうぶ毛と、多めのホクロしかなかった。
「大橋くん、えらいことになってるよ」
 ぼくは小声で、耳はあるので安心して言った。
「かいてくれー」
 大橋くんがやけに甲高い声で言った。
 あれ? ちがう。こんなに高い声じゃないし、口もないはずだ。実際ないじゃないか。
「かいてくれー、れー、れーれー」
 大橋くんがまた言った。今度は少しふざけている。そして月島さんが笑った。月島さんの声は、大橋くんのそばから聞こえたような気がした。
「え?」
「かくんだ中丸ー」
 耳を澄ますと、ピヤノの音が聞こえた。そして、そのピヤノの音が、かくんだ中丸と聞こえた。
 信じられないことだが、月島さんのピヤノの音で大橋くんは喋っていた。
 こんな不思議なことが。おどろいた。ぼくの絶対音感のステージがあがったのか、ショッキングのどさくさまぎれに大橋くんが超能力を身につけたのか、とにかく安心した。大橋くんは強い人間なのか弱い人間なのかさっぱりわからない。
「かゆいの?」
 いやちがう。かゆいんじゃない。自分で言っておいてぼくは首を振った。
「顔を描くんだね」
「当たり前だろー笑わせるぜー」
 ピヤノの音がそう聞こえるのだ。
 床に転がっていたマジックを手に取る。こんなところにマジックがあって本当によかった。
「今描くよ。そっくりに」
 大橋くんの手がぼくの腕をつかんだ。なんてメッセージのある握力。大橋くんはのっぺらぼうの首をゆっくり振った。
「かっこよくかいてくれ、れ、れれれれれ」
 月島さんの楽しそうな息の音がはっきり聞こえた。
 かっこよく描いてくれだなんて。ぼくは息をのんだ。
「でもホクロが……」
 こんなにいっぱいあったのでは……。無茶を言ってくれる。
 ぼくたちの耳には、月島さんの、ときどき顔を見合わせているような、間のある楽しそうなクスクス笑い。顔のない大橋くんはさびしそうに立ち尽くしていた。どうせ悪いとこが取れるなら、ホクロも取れればよかったのに。何より、こんなことになる前に、耳が取れればよかったのに。
 それでも、ぼくはかわいそうな大橋くんのために頭をひねって考えた。何分考えていただろう。そして名案を思いついた。
「森田剛にしよう」
 気づけば、もうピヤノの音はしないし、気配もなかった。
 それでも、最後の希望を失わなかったせいだろう、床の上の口が動いた。
「ありがとう」
 あんまり気の毒なので、ぼくは、もう月島さんが行ってしまったことと、ぼくの絵がすごく下手なことを伝えることができなかった。
 でも、すぐにわかることだが、このときの大橋くんは全て理解しており、何よりとても落ち着いていたのだ。