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ぼくのお母さん

「冷蔵庫に貼ってあるホワイトボードのマーカーが出なくなったの。ペンに磁石がくっついてるやつ。あんた買ってきてちょうだい。どうせヒマでしょう。頼んだわよ。磁石がくっついてなかったらいらないから」
 ちょっとちょっとお母さん! せっかくの日曜日に、まったく人を奴隷みたいにコキ使って、と鼻の穴をふくらませる僕は、そんなこと言いながらも玄関でクロックスをはいて振り返り、
「ほかに買ってくるモノは!?」
 と、なぜかノリノリ立ちこぎ30分、自転車をかっ飛ばして、NHKニュースで紹介されたことのある超巨大ホームセンターへ向かった。
 さっさとマグネットのついたマグネット付きマーカーの会計をすませて、お気に入りの渋い緑色のズボンの膝の横についたポケットにそいつをつめこんで、ホームセンターを見てまわる。そんな日曜日って、まだ午前中だし、
「最高だな!!」
 実に色々な物がそろっているメガロポリスぶり、文明社会のお寿司20個パックぶりに毎度のようにえらい感心していると、ある物が目にとまり、学校では決して見せない動きでかぶりついた。僕は言った。
「もしかしてコレって、昔、床屋に行ったときに首筋につけられた甘いにおいのなめらかな粉!?」
 見覚えのある缶。今は髪の毛は自分で切っているけど、スーパーのトイレで自分で切って全部便器に流してこの前「散髪をする人がいます」と貼り紙されたけど、コレ、あのなめらかな粉だ!
「でも、さぞかしお高いんでしょう!?」
 反対側の棚に聞こえないギリギリの声を出すと、値札に、それまでもったいぶっていた我が視線をズズズズームインさせる。
「た〜ったの300円ぽっきりで買えちゃうの!?」
 すごい時代になったもんだよな〜とテンションを上げながら、首にぶら下げたがま口をパクパクさせてチラ見すると、そこには600円ちょっとがチャリンチャリンしていた。
「でも、これ買っちゃうと帰りマックでセット買って帰れないしな〜。マックのセット食べながらするプレステ3=休日みたいな感じが僕の中でできあがってるから、だから迷うな〜。黄金の味だもんな〜〜。でも、昔、床屋に行ったときに首筋につけられた甘いにおいの粉も欲っしいよな〜。あったらいいよな〜〜〜〜お風呂上がりとかの楽しみが出来るよな〜〜〜〜。今までは結局パジャマを着るだけだったでしょ〜〜〜〜?」
 う〜〜〜〜ん、迷うな〜〜〜〜〜。嬉しい悩みだけど、迷うな〜〜〜〜〜。
「犬見てから決めよう!!」
 とペットショップコーナーに向かって脱兎のごとく駆けだそうとしたその時、
「ガヤガヤ! ガヤガヤガヤ!!」
 嫌いな音が聞こえてきた。僕の大嫌いな音が聞こえてきた! 休日だけには聴きたくなかった、教室から鳴るあの音が!!!
 僕は思わず、後ずさりした。クラスメイトがやってくる!ガヤ!ガヤ!ガヤ!
「そんで」
 井口の声だ! まずいと思った時、すでに僕の為す術は売り切れていた。
「あれ、野方じゃん!!」「マジだ!!」「うっそお前なんでこんなとこにいんの!?」
 大量の歯ブラシの陰から出てきたのは、国坂、井口、倉橋。
 心拍数・体温は急上昇し、ダウンジャケットに包まれた体から汗がふき出した。頭皮の汗がすぐに顔を伝って降ってきた、。
「み、みんなは、どうしたの? 買い物?」
「買い物に決まってんだろ〜〜〜こんなとこただ見に来てどうすんだよ!!」「野方はシュールだな〜〜〜〜!!」「はいスベった」
 自己完結する身勝手な笑いにも、僕に手出しをする権利は無い。僕は、僕は………どうしたら?
「ほら、俺らって団結力のあるクラスだろ? だから、みんなで何か文化祭で面白いことでもぶちあげようと思ってるんだよ。まだそれが何かは言えないんだけど、ネタ探しに、クラス全員でホームセンターに買い出しに来たわけ」
「安田とか遠い奴には先生が学校のバン出してくれたんだぜ!」
 同じクラスの僕に言えないことってなんだろうと思いながら、ただ突っ立ち、クラスの中心3人組に先導されたクラスのみんなが、僕のいる通路に、工場見学のように無遠慮に事務的に流れ込んでくるのを見ていた。
 みんなが僕を見つけて何か言う声は、もうはっきりと聞こえなかった。でも、僕が思いを寄せる中原さんが僕を見て、隣の坂田さんに話しかけられて何か答えているのがはっきりと見えた。見慣れない私服がかわいかった。
「先生は?」
 僕は必死に平静を装って、やっと言った。39人という人数はホームセンターの一列に入りきらないんだと思いながら、一刻も早くここから逃げ出したかった。
「先生いまクソしてるぜ!」
 数人が同時に答えて、みんなが大きな声で笑った。誰かが手を叩く音が聞こえる。どうせ金魚の糞の森くんだ。僕も、意味は違うけどなんとか笑うことができた。
 そこで少し間ができた。僕はそれを気にしたが、どうにもできなかった。こんなときに声を上げられたら、いろいろなことが今と違ったことぐらいはわかっているけど、だからなんだというのだろう。
 すると、国坂が視線をさりげなく周囲に落とし、僕が欲しかったアレを見た。そして、間髪入れずに言った。
「あれ! これ、床屋のあの粉じゃねえ!?」
「え!?」「何が? マジで?」
「あの甘いヤツだよ首筋に塗る! ヤバイ、ナツい超欲しい!!」
「確かに、今は美容院しか行かないからな!!」
 些細なことからトレンドとマストアイテムは生まれてしまう。積み上がった馬の骨の無駄骨の上から……中学のクラスなんて小さな世界であればなおさら。学生ノリの恐ろしさを見よ。熱に浮かされたようにクラス全員が棚に殺到し、床屋の首筋の粉コーナーは、あっという間にぽっかり穴が開いてしまった。
「獲ったど〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「床屋の甘い粉、獲ったど〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
 熱狂的な盛り上がりを見せる中学生たちに、浮かない顔が、僕の他にもう一つ。
「いいよ……僕は……」
 への字眉毛の本間くんの手には何もないが平静を装っているのだろう、口元に笑みを浮かべて首を振りながら震える声で言った。
 しかし、みな自分の物を譲ろうとはせず、本当に困ったな……俺たちは運が悪いな……という顔でかわいそうな本間くんの姿を見つめていた。
「まぁそういうこともあらぁな」森が言った。「生きてりゃ」
 そのとき、いつの間に国坂の横に中原さんがいることに気がついた。そして中原さんは、とても自然な動きで顔を国坂の耳に寄せた。身長差をおぎなうためにつま先立ちをして……。息がかかり、国坂のやわらかい髪がわずかに温かそうに揺れた。
 国坂は前を向いたまま、二人は何か話している。僕はそれを見ている。あの距離であれば、唇が結び、また離れるときの小さな秘密の音だって聞こえてしまうだろう。なんて、なんていやらしいんだ。
 ふっと中原さんが息を抜いて、つま先立ちした足を下ろした。
「待てよ」
 なぜか急に真面目な顔になった国坂が本間くんのもとに歩を進めながら言った。その後ろに、中原さんが付き従っていた。糟粕の妻という言葉が胸をよぎり、僕の脳に煙草の火を押しつけた。
 国坂は、さっきまであんなにはしゃいでいたのに、今はこんなものは必要がないと言わんばかりに、手に持った床屋の粉の缶を本間くんに差し出した。
「俺たち、2人で一缶使うから、これ買えよ」
 中原さんの顔がハッと切り替わった。そしてちょっと国坂の背なを殴るような仕草。
 嵐の前の静けさとはこのことか。女子達が大きく息を吸う音が聞こえた。
「ちょっと、何に使う気〜〜〜!?」「何用、何用スーパーなの〜〜〜!?」
 国坂は少し、テレビを真似てためた。
「そりゃ夜用しかねーじゃん!!」
 ドッ。笑っていないのは僕だけ。でもそれを誰も気にしない。
「ま、う〜〜〜ん、ていうか、これをアミの体中にまんべんなくつけて、エッチが終わった時に見たら1ヶ所も粉が残ってないっていう、そういうエッチが理想かな〜〜〜マジで」
 それは……放送室で……松本人志が言っていたこと……。僕の口は、まがりなりにもそんなふうに動いていたはずだ。でも、その声は誰にも聞こえなかった。
「国坂エロすぎ!!」「チョー変態じゃん!!」「勝てね〜〜〜〜!!」「レベル高いな〜〜〜〜〜〜!!!」
 ホームセンターで色めき立つクラス。中原さんは顔を真っ赤にして、でも少し笑っていた。幸せは歩いて来ない……だから歩いて行くんだね……。
「コラコラ国坂〜〜〜!! 聞いたゾ〜〜〜〜!!」
 背後から聞こえた声。みんな、僕越しにそっちを見る。僕は中原さんの顔を見ていた。こんなに中原さんばかり見ているのに、一度だって視線が合うことはないのだ。
「聞いちゃったからナ〜〜〜〜〜〜!!」
 そっちに振り返らないでも僕にだってわかっていた。棚の陰から顔と振り上げた片手を出した堀端先生がこっちを見て笑っているのだ。いつものジャージ、あの同じのを10着持ってると得意げに言うジャージに、球技祭で作ったクラスTシャツというお馴染みの出で立ちに決まっている。体育教師が……。
「国坂、お前のその発想、ワードセンス、そして優しさ。どれをとっても……お笑い芸人級に認定!! 吉本行け!!」
「出た〜〜〜〜最大級の賛辞!!」
 そんなみんなの盛り上がり音「ワッ」が、ワギャンランドみたいにホームセンターの高い天井に、ゆっくりゆっくり飛んでいくのが僕には見えた。そこには沢山の取っ手がついているというのに、僕はそれを見ているだけだった。そしてそれはやがて消えて、みんなの思い出になったことがわかった。
「でも、野球の方でもそれぐらいホームランかっとばしてくれよ〜〜〜〜〜!?」
 クラスのみんなの笑い声。やはり僕が出してきた笑い声とは少しちがう笑い声。
 いつもこうだ。いつもいつもこう。部活の顧問は、部活の関係性をクラスに持ち込むんだ。
 くたばれ、くたばれ、くたばれ……。 
 三度唱えながら、いつの間にか倒れて足を銃弾に打ち抜かれていた僕は、這って通路を抜け出した。
「あとは勉強面だけだな!!」ドッ。
 足に空いた穴からダラダラ血が流れていくそばから、掃除のおばさんがやって来て事務的にモップで拭き取る。誰も気づかない。気づいているかも知れないが、2秒も経ったらもう同じこと……誰も僕を覚えていない。誰も。
 どうにか自転車置き場まで這ってきたところで、携帯電話が震えた。痛みをこらえてやっと手で取り出すと、「お母さん」とあった。
『赤のマーカーもあったら便利かな? マグネット付きのがあったらでいいんだけど』
 僕は友達なんて一生いるかと考えた。つよくつよく生きていこうと、なるべく元気に返信した。それに今日は日曜日じゃないか。
『ごめん、もうホームセンター出ちゃった!』