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亜塚芽衣子、秘密の出産

 ここは清潔で赤ん坊を産むのにぴったりだわと亜塚芽衣子が考えた時、赤ん坊はもう既に肩まで出ていた。
 14歳。平凡な家庭に育ち、平凡な恋に落ち、まあまあ奇抜なセックス(宝船)をしたのが運の尽き。普段やらないことをしようとしたその報いが胎盤にそっと降り立った。
 母親への出発の地に彼女が選んだのは赤ちゃん本舗のトイレ。来店者の8割が赤ちゃんを連れている、赤ちゃんの総本山。そこで赤ちゃんを産もうというのである。
 熱い息を絶えず吐きかけ、苦しそうにうなり、息みながら個室の壁を爪でひっかく芽衣子。かなり辛そうだ。しかし母親としての自覚が芽生え始めている芽衣子は自分よりも赤ん坊の心配をしていた。
 ビデのボタンを押し、なぜかドアに向かって叫ぶ。
「水よ! 飲んで!」
 叫んだ拍子に新しい生命は全部出たので、ビデは普段通りの目的を達成、しかるべき場所へ直撃、赤ん坊は狭いスペースでへその緒を軸にくるくる回転、そうなったらなったで、芽衣子は時間をかけて恥部を洗浄した。真顔で前方やや上を見るのはいつものことだった。
「しまった!」
 いつもより若干早く我に返った芽衣子は赤ん坊を取り出した。赤ん坊は悲しい運命を承知しているのか、まったく泣かないどころか堂々たる鼻呼吸であった。芽衣子はトイレットペーパーを巻き取り、その身体中を拭いたが、ねばつきがすごいのか、みるみるうちにペーパーまみれになった。
 彼女はそれを、横で突っ立っている男に見せた。男は言った。
「オナニーしてすぐティッシュで拭いてそのままボケッとしちゃった時みたいだ。かわいいね、僕たちの子なんだね……」
 その男、ザ・種馬、喉自慢輝彦は赤ん坊を見つめてため息をついた。中2のくせに『フレンズ』の一番年長の奴みたいな顔をしている。何を隠そう、宝船をやろうやろうと言い出したのはこいつである。よく、やろうやろうと言う。
「輝彦くん、でも、ベトベトがなかなか取れないの。呪われているみたいに」
「このベトベトは……」喉自慢は腕を組んで顔を少し近づけた。「遠慮なく言わせてもらえば『ザ・フライ』のベトベトに相当近いよ。絶対に呪われている。僕がクンニリングスした時はこんなものなくて、それはもうシャバシャバだったから、どこかで呪われてベトベトになったに違いないよ」
「やっぱり……」
「膣ん中が呪われていたに違いないよ」
「じゃあ、どうすれば……」
「でも愛してるけどね」
 それから喉自慢は個室を出て、狭い女子トイレを一周した。そしてまだ個室の中から出て来ない芽衣子の目の前まで来ると横を向き、こまわりくんの体勢を取って、両手で芽衣子の抱えている赤ん坊を指さした。そのまま五秒間停止した後、言った。
「今すぐそれを僕に!」
「え!?」芽衣子は渡した。
南無阿弥陀仏!」
 喉自慢は赤ん坊を受け取るやいなや、温風機の下に突っ込んだ。
 ブオーという大きな音とともに温風が吹き出した。
「ごらんよ! 温風器が反応した。僕たちの受精卵が今、血も涙もない21世紀の機械に、生体として認められたんだ。僕たちの生命をこの社会が受け入れた瞬間だよ! 呪われてなんていなかったんだ! この子は、人間の子だ!」
「綺麗な音……祝福の風……」
「ついでに熱風消毒もできて、これはかなりいいよ!!」
 肩を組んで飛び上がった後、二人は見つめ合い、やがてそっと抱き合って、風の音を聴きながら、若さに任せたディープキスをした。僕は書いててヘンリー塚本作品を見ているような気分になってきた。
 どれぐらい経ったか、正直勃起して、そういえばと思って振り返ると、赤ん坊のわずかな産毛がなびいていた。まだ切れていないへその緒はカラスミのように乾燥の時を迎えていた。二人は見つめ合い、ともにうなずいた。母親がそっと赤子を取り出す。風が止む。魔法のように乾いた赤ん坊は、楽そうな鼻呼吸で応えた。
「さあ、この子を運び出さないといけない。誰かに見つかったら大変だ。ゲーセワニュースになってしまう。一応これ、容れ物は持ってきたけど……ただこいつ、予想以上にでかい!」
 喉自慢は、チップスターの大きい筒を懐から取り出しかけたところで、大げさに尻餅をついた。一瞬遅れて、女子トイレの空中を初めて飛んだチップスターの空き容器が軽やかな音を立てて床をはねた。
「もう、終わりだ!」
 万策尽き果て、大の字に寝転んだ父親の姿。芽衣子はパーカーの一つながりになったポケットの中で、空になったきのこの山の空き箱をそっと握りつぶし、愕然とした表情を浮かべて崩れ落ち、清潔ではない床に膝をついた。
「ぜんぜん、入らないわ」
 二人は子を持つにはあまりに幼かった。へその緒を切ることもできないほどに。
 父親はうつろな目で天井を眺めて、独り言のようにつぶやき始めた。
「まさかこんなにデカいとは思わなかった。逆にデカすぎるんじゃないかと心配して、チップスターの小さい方の筒も用意してきてしまったぐらいだ。せっかくだしこのチップスターの筒は、この子が大きくなったら筆箱に使うことにしよう。こんな絶望的な状況でも、考えるのは明るい未来のことばかり……」
「そうね……幸せを願う権利は誰にでも……私たち、これからどうなってしまうのかしら。この子もかわいそう。別の、たとえば誰でも芸能人のところに生まれてくれば幸せだったのに……」
 三人は疲れ果て、寄り添い合って眠ってしまった。最初で最後の家族団らん。せめてその時が少しでも長く続くよう願ったが、そこに稀代のヤンママが入ってきて、家族は見事ゲーセワニュースになった。