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11月1日

 ドトールでジョン・ウォーターズ『悪趣味映画作法』を読了。面白かった。各章の冒頭の文章が気合い入っててカッコイイ。やはり、つめこんだ知識やらは己の人間性に参照した上で、己にも理解できないものとして出さないといけないのではないか。それがただの排泄行為にしか見えないとしても…。人は得たものを消化することで何かをわきまえ、それを作品にするのではないのかもしれない。きっと得られなかったものだけが作品になるのだ。得たものとは食べたものと同じく、その活動を止めないための栄養でしかない。今は栄養だけを並び替えたサプリメントのようなコラージュ、わかるものを雑多にないまぜにした「なるべくわかりにくいパロディ作品」ばかりではないか……。もちろん、全ての作品がそういうものであるという誹りは免れないにしても、ますます傾向は強くなっていく。
 つまり作り手の見た目には、二つのタイプがあると思う。得たもので作ろうとする者と、得られなかったもので作ろうとする者。もしくは当人にとっては全てまだ得られていないものなのかも知れないが、それが受け手から見たとき、全部僕知ってるんだけど…というのは死ぬほど多い。そして、完全に得たものだけでものを作ることをマーケティングと言うのだ……。無気力になるのも止むを得ないし、そのぶん良いものを見たときは本当に幸せだ。こういう話で出すとベタになるけど、岡本太郎もそういう意味で言っていたはずだ。当たり前の話、得たと自覚できるものと、得られなかったと自覚できるものでは、前者の方が量的に多い。そうじゃなきゃ例えば本なんて退屈なもの読んでいられない。でも、それを何かに生かそうと不埒なことを考えれば、得られないものに普通より勇んで目を向けなければいけないから、何だかわからずそっちを嬉しがっている。わかんないのに。本来は得られないものを欲しがって読んでいるという自覚があるから、膝を打つようなことがあってもそんなに面白くないし、延々本は買わなきゃいけないし、辛いことばかり。交通事故でスコンと死んだら目も当てられない。考えてみたら、鈴木重機の『千人斬りカメラマン日記』が最近では記憶に残っていて、存在意義があると思って作られたものが全然無かったという寂しさの中で、物として残り続けるというのはやはりロマンだ。トイ・ストーリー3とかウォーリーとか泣いちゃったから……。でもそういうマイナーなものを「こんなのが」という形で出していくのもどうだろう。世の中で1人しか見ていないものがあったとして、それを見ていることを嬉しそうに報告するのも、殊勝らしくそっと出すのもいやらしい。そんなこと言ったら、自分で作ったものは初めは当然自分しか見ていないもので、そういうものを見せたがるというのはやはり恥を知らないのではないか……。
 誰もが誰もあんまりこういうことを考えずに、今ものうのうと作品が作られていく。でも、考え事とは、考えているレベルと無関係に、自分は考えていると思えるもので、考えようとアクセルを踏めば、みんな本当に「考えている」ということには疑いがない。まして本人には疑いようもない。誰も自分がどこにいるか知らない。他人との距離感だけがむなしく自覚される。そして、誰もが一様の泣き言をくり返す……。それがイヤなら、泣き言を言わないようにするしかない。


http://picup.omocoro.jp/?eid=1239#sequel


 ↑どろりさんの新作「名犬ラッキー」はスクロールして犬の首の長いの短いのだけがいっぱいあるところが出終わって、最初の話が露わになったところが一番面白い。こんなことを言うのは迷惑かも知れないけど、リアリティーをどう詰め込むかというのが大事で、このぐらい詰め込まなければもう見世物としてやっていく資格はないのだ。肝は当然、「赤塚的なコマ遊び」と「地域新聞の(過剰に没個性的な)四コマ」で、前衛的なものと非前衛的なものの同居が基調となっている。僕の言葉で言うなら、メイン・リアリティがコマ遊びで、カウンター・リアリティが地域新聞なのだ。(その後、twitterで市民体育館の啓発ポスターを目指していると本人談。なるほそ)それが読み手のスクロールによってきちんとした順番で登場するところは実によく考えられている。みんなが「発想の面白さ」とコメントしているものは多分コマ遊びの部分で、それを十全に引き出すものが地域新聞の四コマ的なものであることは見逃している。これで、のっけから首が長いことを強調するような内容なら、この面白さは出ていないのに、みんな読者は赤塚的コマ遊びだけを面白がっている。
 それをやるのは二つ目、三つ目で、ここは慣れているから小ネタというか、面白いけどそれほどまでのことはない。どうして僕らは力也とかナンちゃんとかが好きなのだろうという疑問だけだ。ナンちゃんに関しては、それこそさっき書いた存在価値において、僕たちはナンちゃんをまだ得られていないのだと思う。ナンちゃんについてわかるまで、僕たちはナンちゃんを消費し続ける。でも慎重に、手放す準備をしながら…。寝癖のやつに関して言えば、どろりさんのディズニー好きというかカートゥーン好きというのが出ているのかも知れない。これだってリアリティなのだ。つまり、「入ってた形になるとか飲みこんだものの形になるとかは古典的だけどまだ得られていないものだ」とどろりさんは判断している。これにはとっても同意する。まだ得られていないとはまだ面白いということで、ディズニーやカートゥーンアニメを今も見て楽しいのは、そういうところがあるからだ。だから、沢山得て、得られない面白いものだけで何かを構築しようとするというのは、異様な努力が必要なのだ。だいたい人はいつまで食べ続けられるものだろうか…。そして、こういう古典的な良いものがDNAのように静かに息づいていることが、僕や頑張っている人達を勇気づけるではないか……。どろりさんが意識していないとしても、むしろ無意識であればこそ、僕たちは過去の偉人達の輝かしかったりどうしようもなかったりするものの中で生きているこそを実感できる。
 体力ゲージというリアリティはイカしているし、ハマっているし、最後にふさわしい。でも、どろりさんはちゃんと人生というか物語の要素を入れつつただでは終わらせなくて、話数を見ると、最後の話は、最初の話の前なのだ。そして、続き四コマというのはそういうものだというのもリアリティーだし、それが使い捨てにならずにきちんと生かされている。本当に、これぐらい詰め込まないとこういう種類の面白いものとして成立しないというのをみんなどれくらいわかっているんだろうか……。
 だからこそ、最後の「今までありがとう、ラッキー!」というのはオチとして成立する。これまでの回で、どろりさんはオチにこだわっているけれど、それは今回も健在なのだ。「感動する」とかトンチンカンなコメントしている人は、それが皮肉に回収されていることを知ったりとまだまだ頑張ることはいっぱいある。この仕掛けはどろりさんが「これからも努力しますよ人知れず」という隠れたメッセージでもあるし当てこすりでも挑戦状でもあると思う。それに気づいてあげなければやっぱり気の毒ではないだろか。純粋に「笑い」としてのおもしろがり方としては、僕はコメント欄の人達に遠く及ばないと思うけれど、作り手はちゃんとしたことを言われたいし、そういう人に読まれたいのだということは身にしみて知っている。