10月12日(自分の日記より抜粋)

 10時頃起きて、小津安二郎『晩春』を見る。笠智衆も、娘が嫁いで、うなずいたり返事したり諭したりすることがなくなるのは辛いだろう。小津映画は不思議とそんな気持ちが真に迫る。茶の準備もリンゴの皮むきも、自分でしなきゃいけないし。その痛みを超えて父は娘を他の家に送らなければいけないというのも、レヴィ=ストロース的なアレ、先に女をもらって結婚した男が女を他人に渡す義務に似た使命を請け負うという「交換」とか色々取るに足らないことを考えさせる。ましてや自分も新しい妻をもらうという倫理的な足かせに感じられることがあり、だからこそなおさらノリちゃんは嫁にやらなければいけない。もちろんそこには社会的な圧力も、本当に娘の幸せを願う心もある。でも、ただ単に「そう決まった宿命」であるかのように描かれるのでグッときてしまう。宿命に対する耐え方を見せてくれるものは好きだ。


 3時頃、家を出て新宿へ。今日はたかさんとどろりさんと飲む(飲めないけど)。その前に、紀伊國屋書店へ。『ふしぎの国のガウディ』『海岸線の歴史』『言語と文学』『日本残酷物語1』(貧しき人々のむれという副題にひかれた)『スパイ・爆撃・監視カメラ』『子どもの絵は何を語るか』を購入。嬉しいが、重くていやになる。


 まだ5時と待ち合わせの7時まで時間があったので、ウロウロした末にサウナ(グリーンプラザ新宿)に行く。90分で1500円。どんどんお金がなくなってゆく。しかも、90分コースの予定が仮眠室で眠りこけてしまい、1時間の延長料金を520円とられる。もったいのないことをした…。それから足の裏が痛い。これは、岩塩サウナだかに入っていたら途中でタオルマットの交換があり、出ようとしたら道をふさぐ男がいたのだった。そいつはいったん外に出ずに、そこで交換が終わるまで待っていようというはらでテレビを見上げており、そのサウナは広い部屋の中央に池のように岩塩が敷き詰めてあって出入り口に至る通り道は意外と狭いので、自分も含めて3人ぐらい道をふさがれてしまった。悪いことに一番前の人が「すいません」ともなんとも言わずに、物凄く苦しい体勢でまたぐように右側を抜けていき、次の人も同じようにしたので、同じぐらいのタイミングで自分が左から行ったら、そこにも熱した岩塩があり、思いきり踏んづけてしまった。何十度あるだろうか、激痛が走った。突っ立っていたボケナスは、誰かの犠牲によって自分の人生が救われているとか殊勝なことに強烈な自覚を感じながら目も当てられないようなひどい死に方をして欲しい。


 サウナで寝ていたせいで待ち合わせに遅れる。本当に申し訳ない。アルタ前までたかさんが迎えに来てくれた。普段の松尾スズキはこういう雰囲気なんじゃないかな、という雰囲気だった。サウナで寝ている時にメールをくれていて待ちぼうけさせてしまい本当に悪いことだったどろりさんは、喩えようもなく、ああいう活動をしている人としてそれっぽかった。いい人たちでよかった。
 お二人とも、表出と表現の裏表のギャップのある感じ。自分もそうだと思っているけれど、つまり、自分の中の考えや情景というのは制約のない分ときに暴走するもので、人には言いづらかったり言えなかったりするもので、表出とはそういうものが表に出たとき、表出となる。一方の表現は、誰かにとっての表に現れなければいけなく、相手に伝わって初めてそれが表現と呼ばれる。とかいう概念だった気がするけど、それに似たような話を結構した。表出=表現になりたくてみんな頑張っているのだけど、それは支援者や仲間や運に助けられなくてはいけない抜けがたい狭き道であり、たかさんはその有難味というか不可欠なモノとしての価値を年長者として教えてくれて、これから動いていきたいと考えているようだった。
 どろりさんは自分なんかと会うのを楽しみにしていたらしく、たかさんとともにとても褒めてくれる。本当にありがたく、上手く応じられないのが残念だった。少し調子に乗って偉そうなことも喋ってしまった。でも、ちゃんと本音を言えたので良かった。コメントをくれる人を値踏みして、頑張っていない人に冷たいというのは本当に耳が痛い。たかさんは偉い…。どろりさんはああ見えて結構ルサンチマンをためているようで安心した(ネットに書いていいのかな)。


たかさん
http://pokelog.jp/a.php?rs=426161354476&id=18533074081238
どろりさん
http://picup.omocoro.jp/?cid=47


 ダウンタウンの話を色々として、そんなことは人生で初めてで、上手に言えなかったりしても非常に愉しい時間だった。大喜利とかのことも聞けて、みんな笑いのために頑張っていることがわかった。いやほとんどの人は自分のために頑張っているだろう。自分が限界と思っているものが、いつかは数ある足場の一つに成り下がると仮定した後で、その限界を足場として利用しなければならない。でも、そんな方法があるのか…。今日、コメ旬を立ち読みしたけど何も書いてなかったし、東野幸治のロングインタビューは大きい字で5ページだったし。
 面白かろうと面白くなかろうと、個人の判断基準の中で人は大体同じくらいの時間笑っているんだろうから、こんなことに熱を上げても何の意味もないかもしれない。社会とか人生とか世界とかに転がっている余計なもののひとつとして音楽や映画や小説があると中原昌也が書いていて、それが余計でありながらどんな作用があるか、あるいは全然ないかということを知りたいし、知らしめたいし、余計に作用があるものを作りたい。そういう願いを持っていて実現させた人達にシンパシーを感じて頑張る内に、それがいかに辛かったりとんでもない犠牲を払う労苦だったりするかに気づいて、排他的になっているのが弱いのかもしれない。フジテレビのデモ主導者が当のデモで彼女が出来たから止めちゃうとか、そういうことはやっぱりあると思うし妙な気分になる。水木しげるとかの時代でもないし…。宿命の耐え方を学んでしまうというのは、その傷を埋めようとしているのかもしれない。
 若気の至りというのは良いにつけ悪いにつけ恐ろしいモノで、成長したと思っていても、以前の自分の考えていることに負けたとか今はこんなもの書けないとか思うことも多々ある。自分も含めて、松本人志のことをなんのかんの言ったけれど、これまでの大きな功績が若気の至りであるかも知れないことの可能性は、そういえばあまり考えない。
 小説や映画であれば、ジジイやババアにならないとわからないんじゃないかとか、ジジイやババアになっても翻弄され続けるんじゃないかとか、みんなが心配していることがあって、そういう凄味がどうしようもなく回り込んでくるのだけれど、そんなものは今の笑いというものにはない。それをきっと人生とか人間の真実だとか言うのだろうと思う。笑いにはジジイやババアや有象無象のあるあるがあるだけで、それをいかに組み合わせて珍奇なものを作るかという風になっている。レベルが高くなればなるほど、知識に訴えかけるようにならざるを得ない。それは人生や人間からどんどん離れる。お笑い番組を見ると頭が悪くなるというのはきっと本当で、笑っていれば人生について考えることもない。今の日本の笑いに必要なのは、それこそチャップリンのように、笑わせるだけで終わらせないことなんじゃないかと思う。人生や人間を考えさせること以外に深いモノはないんじゃないか。人生を笑っていられるのは十代二十代ぐらいでおしまいで、だからみんな「笑い」から離れていくわけで、でも「笑い」に魅せられたからその可能性を信じたくなるという気分で、自分たちは取るに足らないことを今も頑張っているという気がする。
 人生や人間を「笑い」によって考えることについて、今現在、誰ひとり上手くいっていないように見えるのは、どういうことか。2700のコントに無いのは人生であるかのような気分が僕にはしていて、それが今のお笑いに僕が100%のりきれない要因かもしれないと考えた。松本人志全盛期には、やっぱり人生があって人間の真実を切りとっているように見えた。笑いもあった。片栗粉入れるとどろっとするとか、そういう飲み下しにくい引っかかりが強度になるんじゃないか。十年後二十年後見られるような強度のあるものには、やはり人生というか人間が必要な気がする。そういうものを目指さないなら目指さないでやっていけるのだろうけど、そういう満足はいかがなものか。
 で、そういう人間や人生が笑いになくなったのも、やっぱり松本人志のせいで、笑いがエスカレートしたことで人生を含んだ題材が取り上げられなくなってしまったということがあると思う。躊躇わずに松本人志と比べるけど、どろりさんが過剰に超越的に感じられるのは「人生」とか「人間」要素が全然感じられないからだと思う。そしてそれが末恐ろしいところだ。もちろんネットということもあるけれど。つまり、今、笑いだけを突き詰めたらみんなどろりさんになると思う。そこまで行くだけでもかなり常軌を逸した努力とか生き様が必要だ。そして、次の笑いはそこから始まるはずだ。
 僕たちは歩み寄るということで話をしていたけど、言い方を変えれば、今やるべきは、笑いのクオリティを現在の超先鋭的なところで維持したまま、なんとかして人生や人間を考えることではないか…。みんな人生について考えたがっていて、だから「人生なんて、や、人生って!を感じられるわかりやすいオチのあるやつ」や、「結果的に生き方を指南するやつ」「人生を送る場である社会に対する言及が感じられるやつ」「人間の認識について考えさせてくれるやつ」「恋愛のやつ」「死んじゃうやつ」を求めているのだと思う。
 で、松本人志も老境にさしかかって、色々あった上での人生側からの要請として、映画でそれを考えようとした。でも、人生についての考え方がブレーン含めて浅はかだからダメなんだと思う。だって、それまでずっと笑いについて考えていたんだから、それまで人生について考えていた人のように考えられるはずがない。まして笑いもやろうとしたら、並大抵ではない。だからこそ、松本人志の功績は「若気の至り」と呼ぶべきなのかもしれない。
 人生や人間を考えようとしたら笑えない。笑いは今そんな前時代的なところにないし、人生がそんなに軽いものではないとだんだんわかってくるし。マーク・トウェインも、「人間は一つだけ強力な武器を持っていて、それが笑いだ」と書いている。はっきりと「救い」の意味で書いているんだけど、なるほど「救い」であればそれだけやっていればよい。でも、安易に「救い」を求める人間が弱いことも感覚的にみんな知っていると思う。弱いというのは、人生や人間についてあまり考えていないということなんじゃないか。そういう意味で現在の松本人志も弱いし、今のお笑いは本当に弱い。目的地は遠い。それが本当に目的地であればだが…。何の意味もないことを、それこそ人生の貴重な時間を使って考えて、本当にバカだということもある。


 そういえば、横にいた女性4人組が歯磨き粉の話をしていて、一人、聞いたこともないような名前を言って笑われていた。4文字ぐらいで本当に聞いたことがなく、ちょっと面白かったのだが、名前を忘れてしまった。
 帰ると日がかわっていたが、忘れないうちに日記を書く。長く長くなった。サウナで寝たのであまり眠くないが、午前4時なので寝る。教えて頂いたものは早いうちにチェックしよう。