いい湯だな

 普通免許を持っていないから、「道間違えた」とか言ってバックでスピードを出されると腰が抜けるほど驚くし、戻ってちょっと走り出してからもずっと不機嫌そうな若い騎士。今日もそういうことが、しかもタクシーであったものだから、彼は温泉(秘湯)に着いた時も、脱衣所で西洋の鎧を脱ぐまでふてくされていた。しかも入湯料が800円ときた。
 でも、籐のカゴに着ていたものを入れてガラス越しに露天風呂を見たらさすがに気分が変わってきた。
 騎士と言えば紳士。紳士のたしなみといえばハンカチ。それを折りたたんだサイズのまま股間に乗せ、湯煙の中を駆けてゆく騎士は、他に客が見当たらないのにつけこんで、お尻も洗わず、膝が顔の横までくる元気のいい体勢で、湯船に飛び込んだ。派手に水しぶきが上がった。
 と、その時。
「お風呂に入るときのルール、その1」
 やけに響く声。悪魔を連想させるが温泉だからだ。
「元気よく!」
 一か八か逆に声を張って答えた騎士であったが、ブッブーと不正解の音が聞こえた。
「正解は……」
 ゆらりと出てきたその老体はしかしツルツルテカテカ明日も……晴れるかな〜(犬がいないバージョン)、であった。この温泉の美肌効果がうかがい知れる。彼はワクワクした。
「ケツを洗えよデコ助野郎。外タレであろうと同じことよ」
「私は外タレではない。騎士(ナイト)だ」
「騎士だろうとなんだろうとルールは守らねばいかん。飯を食うときは帽子を脱ぐ。友だちと格闘ゲームをする時はなるべく技を出す努力をする。風呂に入るときはケツを洗う。当たり前のことだ」
「私の祖国の諺を教えてやろう。ちょっと最後の方しか覚えていないが、ロマンズドゥーというものだ。概ね『そこではそうしろ』という意味だ。私に向かって、どの顔を向けてルールを守れと言うか。老いぼれ、はっきり言おう! 私はケツは洗った!」
「嘘をつけ!」
「洗った!」
「洗っていない!」
「これで最後だ! ケツは洗った!」
 カラリと戸が開いた。もう一人、ジジイが立っていた。騎士は肩まで浸かりながら驚いた。ジジイが不気味にナイトガンダムの武器を引きずっているではないか。
「それは私の電磁スピア! なぜそれを!」
「話は聞かせてもらった。そしてお前はケツをびたいち洗っていない。では質問に答えよう。このナイトガンダムの武器は入り口の傘立てにさしてあった。外人タレント、ここまでだ」
「し、しまった!」
「おりゃーーーー!!」
 と言いながらおじいさんがスピアを日本刀のように上段に構えて駆けてくる。
 騎士は目を閉じ、右手で十字を画いた。しかし、湯船の中では左手で必死にケツを洗っていた。しかし遅すぎた。
 数々の決闘を制してきた男が、温泉で気絶した。気絶したのだ。