出た!伝説の安田大サーカス・エンド(バッド・エンド)

 家に帰って電気をつけると、冷蔵庫の横にスーツ姿のおじさんが立っていた。
 ぼくは驚きもものきもせず二十世紀を遠くに感じていた。二十一世紀も11年ぐらい経っちゃうと、なんかスーツ姿のおじさんが帰ったら自宅にいる展開もよくあるもんだ。中学生とかがよく考えてて、まったく驚かない。
 だから、ぼくはほとんど電気がついたと同時におじさんを指さし、啖呵を切った。
「あんた誰!」
 すると、おじさんはこともなげに答えた。
「君を研究しているものだ」
「なんだって!」
 ぼくは心底おどろき、ズボンがずり下がった。不気味なほど静かな部屋に、ずるりという乾いた音が響き渡った。おじさんは内ポケットからモレスキンのノート(ピカソも使っていたとか)を取り出し、すごい勢いでメモを取り始めた。
「やめろ! メモをするな!」
 おじさんのお口はチャックし、ペンはとまらない。研究しつくされる。僕の脳が拒否反応を示した。
「研究するな! 見せろ!」
 ノートはあっさりぶん取ることができた。そいつを目にした次の瞬間、ぼくは熱いものでも持つようにノートを放り出してしまった。ましてその下では、ぼくのズボンは高速で足首と股の間を上下していた。
 迫り来る不安のあまり、ぼくは路地裏の弱いチーマー口調になっていた。
「鏡文字だ! こいつ、研究やってるぜ!」
 低学歴にはいささか説明が必要だろう。鏡文字といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチレオナルド・ダ・ヴィンチといえばモナリザ(超スーパーぐらいの意)研究熱心。今日ほど『ダ・ヴィンチ・コード』を読んだり観たりしておけばよかったと思った日はない。モナリザを生で見たことのある人間というのは、だいたい偉そうだ。それは、モナリザを見たことがあるという事実の奥に、「海外旅行よく行ってます」というより重要度の高い意味が隠されているからだろう(ダ・ヴィンチ・コード)。
 ガチガチとぼくの歯の根は合わず、永遠の十三年前に流行った前衛音楽を奏でた。
「まさかお前、モナリザを……本当にモナリザルーブル美術館で」
「ん?」
ジョージ・クルーニーのようにマイルを貯め込んだか」
「何を言っているかわからんね。実に興味深い」
 おじさんは、またメモを取るためだろうか、一歩ずつ確かめるような歩調でノートに近づき、至極ゆったりとノートを拾い上げた。
 その瞬間、福山雅治のモノマネまでが理解を超えて飛び出してきたあせりからに違いない。ぼくの社会の窓から三つのボタンが連続で発射された。そして、それが全部外れて一つ残らず壁に突き刺さった。
 おじさんは、長い前髪を手首の辺りで不気味になでつけながら、ぼくを見ていた。
 ここに至って、ぼくはもう何を考えていいかわからなかった。だから、なんでトータス松本が最後なんだろう、と考えてしまっていた。いったいどうして。
「挨拶がまだだったね」
「な、なんだと!」
「私は、吉本吉彦研究家だ」
「ぼ、ぼくの名前! 本当にぼくの研究家なんだ!」
「金土はハリネズミのことを、火水木は計量政治学と芸能界のことを研究している」
「実はすごく手広く研究している人だった!」
 ぼくはハリネズミより研究時間を割かれていなかったショックを隠して元気に振る舞ってはいたが、ズボンはすでに安田大サーカス式に両側から破りとられる5秒前を迎えていた。それに気づいていたから、声を振り絞った。
「勝手に人を研究するなんて、ろくなもんじゃない! 学問を土足にして、無辜の一般人のプライバシーにずかずかと上がりこんで行う研究につぐ研究。確かに名目はそうだろう。でも、その内実は暴力につぐ暴力だ。選民意識を逆手につかまえてメガネの皮をかぶった殿様商売。健気に生きている人間を見下し、その営みを笑い、折り目正しく正座した膝の上に論文を積み上げる。そんな汚い人間がお前らだ! そしてその代表が、今ぼくの目の前にいるお前だ!」
「日曜は家族サービス」
「負けた!」
 午後九時十六分、ぼくは安田大サーカスした。無論、研究対象である。