12時に吉野家で待つ

 サッカー部の加藤を、俺は12時の吉野家に誘い出した。一年生からメキメキと頭角をあらわし、二年生で背番号10を背負い、最近モテキというドラマがやっているが、モテモテの加藤。俺の高校部活人生はいつもいつもこいつに阻まれてきた。モテキのモの字もねえ。
 11時52分、牛鮭定食はとっくに食べ終わっている。この定食をみんなに紹介するなら、


 ご飯・・・丼一杯
 牛皿・・・底が透けて見えるほどの量
 鮭・・・・とてものっぺりしている
 キュウリのキューちゃんの赤いやつ・・・山ほど


 俺の口の中は、さっきまで出たり入ったりしていた牛と鮭の存在感が味噌汁でなあなあになっていた。
 ところで、食べ終わってからかれこれ十分近く経っているのに一向に町へ繰り出していかない俺を、店員たちが明らかに吉野家違反だと考えているらしいのはまる見え、言うならば丸美屋だった。
 そんな際どい視線を感じながら、俺はさっきからずっとそうしているように、チラリと窓の外を確認したが、奴はまだ来ない。
 視線を戻すと、目の前に店員が立っていたので、飾らずに言うなら俺はびっくりした。
「お客様、当店は吉野家でございます。牛丼一筋でございます」
 体格はいいが、細目で冴えない男。そいつが俺を見下ろしている。出て行け。つまりそういうことだ。
「鮭も出してんだろ!」
 俺は言い返し、にらみ返してやった。
 店員は、何か言おうとしたのを止めて、くやしそうな顔で厨房の方に帰っていった。
「もっとビシッと言ってやれよ! 使えねえな!」
 11時54分。丸見えの厨房で説教される店員を、すべての客が見た。鮭の件から、吉野家中の注目が集まっていた。食べる以外にすることがない吉野家では、何かあれば一人残らずそいつを見ることになる。
 バイトは、少し沈んだ表情で俺の方へまた歩いてきた。顔という顔がそれを追いかける。俺は待ちかまえる。
「牛丼と鮭一筋でやっております」
「お兄ちゃん、豚丼ひとつ」
 11時56分。今きてメニューを選んでいた老人が、奴の背中に向かって大きな声で言った。一斉に牛丼をかきこむ音がして、俺は客に後押しされているのを感じた。
 吉野屋の店員は泣きそうな顔になってしまった。
 11時56分30秒、濡れたメシをかきこむ音の洪水の中で、突然、ドラマチックにその時が訪れた。
 吉野家の窓から、加藤が見えたのだ。道路の向こうで、ジャージ姿で信号がかわるのを待っているところだった。
 俺は、足下のリュックをつかみとり、あわてて吉野家を飛び出した。
「食い逃げだ!」
 さっきの店員が声をあげた。思い返してみれば、俺はこのとき、吉野家は後払いという事実をすっかり忘れていたのだ。
 しかし俺はかまわず走った。食い逃げのためではなかった。俺の目には加藤しか映っていなかった。
 俺と加藤は横断歩道を挟んで向かい合った。
 ダラダラした休日を過ごしているけど後悔してません。と言わんばかりに上下スウェットの奴が黙って左手をちょいと挙げて俺に挨拶した瞬間、俺はリュックサックからサッカーボールを取り出すと同時に、ドリブルを開始した。信号が青に変わって、とおりゃんせが鳴り始めた。試合開始のホイッスルだ。
「今日こそおまえをぶち抜いてやるぜぇぇーー!!」
 牛鮭定食をたいらげた体を躍動させ、加藤に突進していく俺。
「待て!」
 という声が後ろから聞こえたが、俺の高速ドリブルの耳にはまったく入らないようだった。
 加藤、卑怯だと言われようとも、俺は今日、ついにおまえを抜き去る。12時の吉野家で待ち合わせて、昼飯を一緒に食べるのかと思いこんで空きっ腹でやってきた加藤てめえは、既に11時半に吉野家入りして牛鮭定食をペロリたいらげた俺に突然勝負をしかけられ、腹ぺこビックリ為すすべもなく敗れ、涙をのむのさ。ここまで完璧な作戦は、映画「スティング」以来だ。
「食い逃げだ!」
 ワールドカップでも使用された球が、横断歩道のボーダーを従順に転がっている。
 右に抜くと見せかけて左に抜き去り、最後お前に言わせたい。いや、絶対に言ってもらう。敗者の台詞「右に抜くと思った」を。お前に。
「お前のためのシナリオは用意してあるぜぇー!」
 シナリオというのは、当然、今書いた「右に抜くと思った」ちなみに、
「アドリブ禁止! アドリブ禁止! アドリブ禁止!」
 華麗なシザースフェイントでボールをまたぎまたぎしながら、ふいに奴を見ると、こんなに急な出来事なのに、しかも横断歩道の上なのに、ウンチングスタイルぎりぎりの体勢をとっていた。もう少し腰を落としたら先輩にからかわれてしまう確率は200%を超えて、まだ上昇していた。相手にとって不足はない。
「右かな、左かな?」
 シザースでクイズを出しながら奴まで1mに迫った瞬間を逃さず、俺は上体を傾け、左に行くと見せかける次なるフェイントを入れた。そして、自分でもいつの間にやら、右のアウトサイドのかなり先っちょの方でボールを右に、奴の左側に押し出していた。何度も何度も練習し、しみついたフェイントが炸裂した。
 俺の目の前に広がった空間を見て、勝った。そう思った。しかし同時に、俺の足は地面になく、体は宙に浮かんでいた。
 あわててボールを見ると、奴のもうそれはすでにウンチングスタイルから伸びたつまの先っちょが、ボールにわずかに触れていた。先っちょ対先っちょの勝負になるとは思っていたが、結末が予想と違う。
「でも、それだけなら、俺がこんなに吹き飛びかけているはずはないよな!?」
 そうだった。空中にある俺の体は、加藤はつま先でボールに触れているだけなのに、めいいっぱい引いた弓のように、出るところに出れば一瞬で吹き飛んでしまうほどのエネルギーを感じていた。なぜだろう。その謎を知りたい一心で、なんとかその場に踏みとどまっていた。
 空中で静止したまま、もっとがんばって顎を引いてよく見ると、後ろから乗り込んできたニューバランスのスニーカーが、がっちりボールをとらえているのがスローモーションで網膜に映り込んだ。
 店員はニューバランスをはいてはいけないという規則は吉野家にない。食い逃げを追いかけてきて、後ろからスライディングし、ファールなしで俺からボールを奪いとったのは、さっき吉野家の店員を叱りつけていた謎の男だった。謎の男っていうか店長だった。俺の口の中に、今度は敗北の味が広がった。ここまで完璧に仕事のできる奴が、吉野家の店舗を任されるんだ。管理職の威圧感に振り向けば、さっきのバイトは店のドアのところで立ち尽くしている。
「まいった!」
 謎が解けた俺はとうとうポップコーンが弾けるような勢いで、向かい側のでかいブックオフの駐車場まで吹き飛び、後ろ向きにゴロゴロ三十回転してフェンスにぶつかり、前向きに三回転したところで止まった。
 その姿を東西南北から、俺の親族、憧れの吉野さんと友達の十和田さん、サッカー部の部員全員、そして俺の未来の嫁が、目撃していたのだ。
「オイオイのろけ話かよ〜!」
 指笛のうまい松尾がピッピッピーと高い音を出した。

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 吉野家牛鮭定食を食いながらこの曲を聴いていたら、ジョニー・トーの『スリ』のエキサイティング・シーンを思い出した。それはあまり関係なかったが、俺は書いた。