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熟女

 東大出身の熟女と付き合い始めたクラスメイトのイケメン、青木ヶ原くんの成績がメキメキ上がっていくのを見た沖田くんは、ひとまず自分も、滑り止めの明治大学出身の熟女と交際することにした。はじめの内こそグングン成績が伸びたが、やがて伸び悩むようになった沖田くんは、ついに京大出身の熟女と付き合い始めた。夢の第一志望交際だ。すぐに沖田くんの成績は学年トップに躍り出た。
 二人のあまりの成績急上昇ぶりで大評判になったこの勉強方法を、みんなが取り入れた。誰もが色々な熟女と付き合い始めた。この世には、熟女はいくらでもいた。
 放課後の図書室は熟女で埋め尽くされた。もともといい大学をでている熟女たちは、勉強の邪魔をすることなく、本を読んだり、『サウンド・オブ・ミュージック』のビデオを見たりして思い思いの時間を過ごしていた。
 三者面談の日、沖田くんは意気揚々と登校した。熟女と付き合い始めて成績が上がって以来、学校生活にもなんだか張りがでてくるようだった。
「子供に見える?」先生がいぶかしげに言った。
「はい先生。なんだか最近、みんなが子供に見えてしょうがないんですよ」
 先生は険しい顔で、沖田くんとお母さんを見つめた。眉間に刻まれた深いしわがゆがんで、コウモリが浮かび上がる。
「それは、熟女とつきあうようになってからかい?」
「ええそうです」
 平気の顔で沖田くんは答えた。先生はますます顔をゆがめ、用意していたプリントを眺めおろした。苦痛を押しこらえているようにすら見えた。
「沖田くん、君のこの前の模試、京都大学の判定は?」
「B判定ですが何か?」
「・・・そうか」
 先生は煙草に火をつけた。沖田くんは、先生が煙草を吸っている姿を初めて見た。お母さんは下を見て、この世から消えてしまいそうに縮こまっている。
「沖田くん、君には今日、聞こう聞こうと思っていたことがあってね」
「はぁ」
「君は・・・熟女にもB判定を出しているんじゃないか」
 ここだけの話、沖田くんは、自分の部屋で熟女にC判定を出していた。しかし、それは熟女と付き合っているのだから当たり前のことだと思っていた。だから、沖田くんには先生が意地の悪い卑怯者に見えた。母親の前で、そんなことをいかにも悪いようにあげつらうなんてひどい。
「それがなにか・・・」
 そのとき、沖田くんの耳に、遠く、吹奏楽部のラッパの響きや、野球部のかけ声、校内放送のくぐもった声から廊下を走る音まで、学校を織りなす音がまとまって聞こえてきた。
「熟女と付き合うにしても、そこまで、Bまでやらなくてもいいんじゃないかと先生は思う」
「みんな、ほかの子は、熟女とはAをするかしないか、そこそこに付き合っているのよ」
「沖田、熟女に入れ込むな。先生だってな、あれもこれも全部するなとは言いたくない。でも、Aまでにしておこう。Aまでにしておこうよそこは。京大も熟女もA判定、そいつを目指すんだ」
「そうよ。ほんと、あなた。Aまでしておくのが一番いいんだから」
 沖田くんは揺れて流れた。沖田くんだって、真実の愛を誓って熟女と付き合っているわけではない。最初は、飽くなき勉学への向上心が恋のキューピッドだった。そのうち、二人きりになった場面で、熟女が迫ってくるようになった。まさにその時そうしたように、今、沖田くんは誰か助けを求めるように、きょろきょろあたりを見回した。ちょうど廊下を下級生の坊主頭が二人、歩いていた。
 声など聞こえるはずがなかったが、沖田君は必死で想像した。
「彼女、ほしいなぁ」「ほしいなぁ」
 低いが、威厳のない、無邪気な声にちがいない。そんな話を切なく抱きすくめるように、学校というすべての音が鳴っていることが、沖田くんにはこの上なくすばらしく思えた。無性に二人の隣か真ん中にでも加わって、並んで歩いて「そうだなぁ、欲しいなぁ」と言いたかった。
 でも今の自分は違うのだ。自分は汚れて濡れている。いろいろな汁をくぐってしまった。あの二人のような、あんな人間に、今更なりたいのはどういうことだろう。
 次の瞬間、沖田くんは頭を抱えていた。
「よく聞こえない。よく聞こえないぞ!ラッパがうまく聞こえないぞ!」
「沖田、どうした」
 先生が肩を支える。お母さんの方は驚いて声も出せないらしい。
「ラッパが聞こえないんだ。俺にはラッパの音が聞こえないんだあ。野球部のかけ声も、校内放送も、うまく聞き取れないんだあ」
 沖田くんは、今なら、すんなり正直な気持ちで、少し残念な気持ちで、熟女と別れられるような気がした。熟女もわかってくれるような気がした。
「熟女のせいなんじゃないか。沖田、熟女と付き合っているからだよ。絶対、熟女が原因だよ。先生そう思うな。熟女のせいだと思うな」
「みんな、大学に受かりたいから熟女と付き合ってるのよ。あなたはどうなの。熟女と付き合いたくて、熟女と付き合っていたの? 本当にそうなの!?」
 沖田くんにはわからなかった。でも、もしそうなら、もしも大学に受かりたくて熟女と付き合っていたなら、もう充分なはずだ。B判定が出た今、何の未練があるというのか。
「別れるよ、俺は熟女と別れる」沖田くんは肩で息をしながらやっと言った。
「それが一番いい」
 面談は終わった。何事もなかったように、京大のみならず、海外の大学も視野に入れていくことが確認され、先生は沖田くんに手を差しだした。二人はがっちりと握手を交わした。
 先生の自信と達成感にみちた笑顔に見送られ、沖田くんとお母さんは部屋を出た。ブラスバンドの音、野球部の音、誰かが廊下を走る音、話し声。とてもよく聞こえる。
「あなた、いつ熟女に伝えるの。今日中に言えるの」
 そんな言葉が耳を半分ふさいだ。
「自分で言えるの?」
「言うよ」
 沖田くんはぶっきらぼうに言った。実はこのあと、熟女と待ち合わせしていた。
 母親と距離を置こうとどんどん歩いた沖田くんは、階段にさしかかる曲がり角で、誰かとぶつかった。
「やあ」
 沖田くんが相手の胸に顔をうずめる形で見上げたそこには、青木ヶ原くんがいた。爽やかな笑顔に、白い歯がのぞいている。なんて、なんてイケメンなんだ。
 青木ヶ原くんは沖田くんの肩をつかんで、優しく距離を取った。
「大丈夫?」
 沖田くんが返事をする前に、青木ヶ原くんは、沖田くんの後ろにいるお母さんに気づいた。なめるように上から下まで見下ろしていき、もう一回顔まで視線を戻すと、青木ヶ原くんは、沖田くんの耳元で低い声を響かせた。
「沖田くん、いい熟女連れてるね」
 沖田くんはまっすぐ前を見据えて、瞬きすらしなかった。
「そのパーフェクトな熟女、どうしたのさ」
 一週間後、青木ヶ原くんは沖田くんのお母さんと付き合い始めた。沖田くんはその夜、穴の空いた蝶になる夢を見た。