後藤西

 20XX年、季節はずれの雪が降った三月のある日、巨人の五番、万原選手が地元の小学校を訪れた。去年は不本意なシーズンを送っただけに、子供たちからパワーをもらいたいところだ。
 体育館でスピーチをしたあと、六年生に「夢をあきらめるな」的な授業をした万原選手。大いに盛り上がった授業が終わると、自称野球小僧が襲いかかった。
「万原選手、俺、後藤西って言います。野球部ッス!」
「そうかそうか。ポジションはどこ?」
「サードで、四番打ってるッス!」
「すごいじゃないか。将来、ジャイアンツに入ってチームを助けてくれよ」
「オス!」
「後藤西くん、あなたの尊敬する選手を教えてあげたら?」
 教室の隅で話を聞いていた、齢五十を過ぎようかという女の先生が言った。
「え、えぇ〜〜俺の? いやだよ恥ずかしいよ先生、なんだよぉ〜〜〜マジでぇ〜〜〜? 頼むよぉ〜〜〜」
 急に小学生らしさが出てきた後藤西くんは、体をくねらせて恥ずかしがった。
「いいじゃないか。ぼくに教えてくれよ」
「そうよ後藤西くん、あなたいつも口癖みたいに言っているじゃないの」
「まいっちゃうな〜〜。じゃあ言うよ? 言っちゃうよ? ……えマジでぇ〜〜〜〜〜?」
「言っちゃえよ、後藤西!」「後藤西!」「おい後藤西!」
 とクラスメイトの声も熱を帯びる。
「俺の尊敬する野球選手は……」
 後藤西は、そこで時間をためた。先生を見て、万原を見て、時計を見た。「もう二時か」とつぶやいたあと、言った。
「ココリコ遠藤さん!」
 クラスからひやかしに似たどよめきが沸き起こった。
 てっきり自分の名前が言われると思っていた万原はどうリアクションをとればいいのかわからず、先生を見た。先生は不適な笑みを浮かべ、万原を見ていた。
「なんだなんだ、野球選手じゃないじゃないか」
 ふざけた感じで対処する万原選手に対して、後藤西くんは怒りのこもった目を向けた。
「ココリコ遠藤さんは野球選手だ」
「いや、ねえ? 彼は芸人さんでしょ?」
 万原は教室の生徒たちに助けを求めたが、誰も難しい顔で首をかしげるばかりだ。
 泣きそうになっている後藤西くんの肩を抱き寄せて、先生は万原選手に言った。
「万原選手。あなたは、人を肩車したまま150キロの球を打ったことがあるかしら?」
「ありませんが」
「ココリコ遠藤はやったけどね」
 いつからそんなところにいたのか、開いた窓のところに体をおさめて手を頭の後ろに組んで窓枠にもたれかかっている、楊枝をくわえた少年があっけらかんと言った。
「しかも肩車されてたのは、松本人志だぜ」
「猿飛くん。物知りね」
 猿飛と呼ばれたその少年は、軽やかな身のこなしで教室に降り立ち、みんなの机の消しゴムのかすを集めとり、それをこねながら、ゆっくりと万原選手のもとにやってきた。
「先生」
 その合図で先生は、ポケットから今年の選手名鑑を取り出して、少年に渡した。
 少年は、右手の指先で消しゴムカスをこねつつ、左手で器用にページをめくる。
「212打席41安打 打率.193 6本塁打 8打点」
 読み上げてため息をつく少年。そして言う。
「これ、なんの数字かわかるかい?」
 それは万原の成績ではなかった。調子が悪かったとはいえ、いくらなんでもそこまでひどくはない。
「いや・・・誰だい?」
「横浜のランドール。得点圏打率、驚異の0割だぜ。『今年は勝負の年。もう後が無い』だとよ」
「それがなんだって言うんだ」
「関係ねえよ、おめえにはよ!」
 猿飛の、野球なんて知りもしねーよというフォームによって、ねり消しが万原の広い顔に思い切りぶつけられて跳ねた。同時に、今日一の拍手と笑い声が響きわたった。机もバンバン叩かれた。
「さっきのお前の話、全員聞いてなかったぜ!」
 盛り上がりの日に油をさすように、一番前の席の奴がひときわ大きい声で言った。さらなる爆笑に、隣のクラスの子供たちも廊下に集まってきた。あの女教師が、廊下で「来い来い」と遠くに向かって手招きしているのが見えた。
「お前なんか誰も尊敬しねえよ!」
 自分の席に戻っていた後藤西が、国語の教科書をメガホンにして叫んだ。