ゴキブリ

 俺の名前は桑田。この春、宮城県の仙台からちょっと行ったすげえきたならしい町の芸大に入った。もともとシャレな横浜育ち。男印はランドマーク。そう、俺がシティーボーイの桑田だ。桑田真澄の桑田だ。
 俺がこの学校に入って一番最初にびっくりしたことは、なんせゴキブリがいっぱいいること。その直後、先輩たちの絵画のレベルの高さにびっくりしたが、ゴキブリがいっぱいいることに最初にびっくりしてしまった。
 なんせ、入ってすぐの丸い球体のオブジェみたいなものにいっぱいくっついていた。俺、そんなとこにゴキブリひっついてんの、横浜じゃ見たことなかったからな。オシャレだと思って置いたのにゴキブリがいっぱいひっついてるのなんてイヤだ!
「す、すげえゴキブリがいっぱいいる――――!」
 学校に一歩踏み込んだ俺は、つま先立ちになり、肩の前で両手を振るオカマのようなアクションをしてしまった。つまり、俺がやりたいのは油絵なのに、パフォーマンスアートを披露してしまったってこと。
 ところがどどすこ、主に宮城県民で構成される同級生たちはゴキブリに何の反応も示さず、いたって普通の様子で「陶芸室がふたっづもあるっぺよ――!」とか言いながらオカマになっている俺の両脇をためらいもなく抜き去っていく。鼻先にぬかみその風が吹く。奴ら、「づっごいオブジェづらぬすなー」とかゴキブリがいっぱいくっついてるのにしげしげ眺める始末だ。
 しかし、俺も負けていられない。座右の銘が「郷に入りては郷に従え」の俺は、徐々にゴキブリにすら慣れていく。幸か不幸か、人間はどんなものにも慣れていくのだ。初めて行った店とかでも、人を猿真似してちゃんと食券を買える方だと考えている。
 新たな気持ちでオブジェの前に立ってみると、確かにゴキブリなんてそう気にしていられないよな、という気分になっていき、オブジェの土台の上に置いてあるゴキブリホイホイも、こみこみでコンセプチュアル・アートに見えてきた。なんせ見えてきた。
 しかし、そんな、入ってしまったものは仕方ないからこの学校に適応してがんばっていこうという気分を、ある声が吹き飛ばした。
「君、肩にゴキブリついてるよ」
「取れ!」
 冗談でなくマジ声を出してしまった俺は、その恥辱に顔を赤らめながら、
「頼むよねえ!」
 ともう一回お願いした。
 その男は、クロレッツの包み紙をポケットから出した。何をする気だ。そして、こともなげに、俺の肩の上でドジな相棒みたいな顔をしているゴキブリを、ガム業界でもかなりちっちゃいはずのクロレッツの紙越しにそっとつまんだ。さらに、そのまま顔の前に持ってきてゴキブリを俺に見せた。
 ゴキブリは豪快にはみ出し、ちょ、超動いていた。
「ちょ、ちょ、超動いてるぜ。あぶねえ!」
 俺の忠告が聞こえないのだろうか。彼は落ち着き払った様子で俺を見ている。
「ゴキブリが落ちちゃ――」
「うちの弟は」
 俺の声が遮られた。
「鼻くそほじりすぎて化膿した手でゴキブリを捕まえて、死んだ」
 これが、ゴキブリだらけの町から来た男、濡山との出会いだった。