『風間亭やんわりの漫画落語傑作選』風間やんわり

風間亭やんわりの漫画落語傑作選

風間亭やんわりの漫画落語傑作選

 なんかコレについて詳しくなろうかな、なっちゃおうかなって思うことが人間よくある。で、本屋さんで入門本をパラパラッと見て、「おっなんかおもしろそうじゃん」とか言って買うことがよくある。
 で、もっと一番よくあるのが、帰って読んだらくそつまんないっていう、これね。
 これは僕の経験で言うけど、一番ひどいのが落語の入門本なんですな。くそつまんなくてびっくりする。落語はおもしろいのに。
 こんな演目があってこうこうこんな話でこんなところが滑稽で、この演目を得意とするのは立川談志、当時の情景が浮かぶので歴史をイメージするための勉強にもなって、人が座って喋ってるだけなのにこんなにおもしろい落語って、すっごい文化だよね。この伝統をたやしてはいけないよね。とにかく一度、寄席に行ってみよう!
 とかなんとか言って、有名な話の流れがサラッと書いてあったりするわけ。でも僕たちゃ、正直言ってそっち系はいいから、とにかくおもしれーのをおもしれーく教えろって言ってんのよ。どんぐらいおもしれーのか、おもしれー言い方で言ってみろって上から目線なの。それをくそつまんない小学生みたいな説明でぐだぐだ言われても、そんなお前がワクワク目を輝かして見てる落語、僕は見たくないよ。そんなに暇じゃないよって思っちゃうの、楽してうまい汁吸おうっていう、入門本読むような僕たちは。
 確かに知識を得て語りたいよ。志ん生の伝説とかを小出しにして、尊敬を勝ち取りたい。けど、だからこそ、くそつまんない入門本のお前みたいには絶対に語りたくない、という気持ちが人間どっかにある。あるよね。
 最近は、そんなニーズにお応えして、各方面の各ジャンルからそういう本が出てる。難しいことも、新書やなんかで頭のいい人がエッセイ風に書いてくれてたりしたと思った九十年代から、ここ数年は学問的体系のあまり透けてこない表現と読みの口当たりに特化したものがじゃんじゃん出てゼロ年代って感じがする。最近読んだ中では、岩波ジュニア新書の『自然をつかむ7話』が学問の体系がスケスケな上にグンバツにおもしろかった。7年前の本だけど。(ここで羽織を脱ぐ)


「それで御隠居、なにを言いたいんですか?」
「八っつぁん、お前さんはあせらず話を最後まで聞きなさい。そこで『風間亭やんわりの漫画落語傑作選』が出てくるわけだ」
 とか言うのは僕がやると全然おもしろくなんないので置いといて、この本は、風間やんわりが有名な演目をマンガにしてるんだけど、まぁ風間やんわりだもん、おもしろい。でも実際の演目とはあんまり関係ない。だいたい関係あるけどあんまり関係ない。でもだいたいは関係ある。
 おもしろい落語をそのまま漫画にしておもしろかったら、落語固有の魅力はないことになってしまう。入れ替え不可能性がそれに従事する人間に専門性を持たせるんだから、だいたい関係あるけどあんまり関係ないぐらいになるのは当然なんです。ましてや古典落語なんて長い時間をかけてファイナライズされたものですから、それをそのままやらないのは、そのまんまやって古典落語に恥をかかせたくないという風間やんわりの熱い思いなんです。
 そう。この本でちょっと感動的なのは、風間やんわりが落語に対してめちゃ真摯な態度をとっていることなのです。
 立川談志が「百も承知、二百もガッテン」と言ってるのを聞いて「すごいな、カッコイイ」と思って以来抱いてきたという落語への愛や噺家さんへの尊敬の念が伝わってきて、なんかちょっとジ〜ンとする。
 僕は風間やんわりをちょろっと尊敬してるので、この本を読んだ今、落語への衝動で胸がじんじん鳴っています。こんな気持ちをミメーシス(感染的模倣)というそう。
 人をちゃんと尊敬するというのはいいことですよ。Wikipediaの芸人コーナーでは、尊敬してる人・影響を受けた人をクリックして色々な芸人のページを読んでいるうちに、いつの間にか文中のリンクが全部紫色になっています。実に深イイ、感動的な話ではありませんか。
 この本の中で荒木飛呂彦にクリソツの風間やんわりは、そんなふうにすごく尊敬してるくせして、かなりなめた服装で噺家さんたちと対談しています。どないやねんという感じで、実に見どころが多い本です。マンガです。


自然をつかむ7話 (岩波ジュニア新書)

自然をつかむ7話 (岩波ジュニア新書)