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福島の夏、秘密特訓の夏

あたりは暗闇に包まれていた。二百万円(税抜き)の照明設備を持つ野球グラウンドも例外ではなかった。それでも少し明るく感じられた。
バッターボックスで一人努力しているのは、福島の坊主、岡本正一。仲間からはおかもっちゃんと呼ばれている高校球児である。
正一の手のひらは、正一、と思うほどマメだらけだった。どれほど野球を頑張っているのかそれを見れば一発でわかると言われる手のひら。正一はかなり頑張っている方と言えた。
そんな正一の足下にはカゴがあった。通常なら硬式球がいっぱい入っているはずのカゴにはカブトムシがいっぱい入っていた。
「俺は福島の高校生だ。だからカブトムシで練習するしかないんだ」
正一は東京都代表への並々ならぬ対抗心を燃やしていた。二つ出られるのは卑怯だと許せなかった。しかし、そんな気持ちと裏腹に、小3から続ける地獄の方言矯正トレーニングにより、正一はスカしていた。
「秘密特訓ってヤツさ」
軽く放り上げたカブトムシにバットをぶちかますと、カブトムシは途中から地力で飛び始める。が、一匹残らず重たげに内野のあたりへ落ちた。
だいたいカブトムシというのはあんまり飛ばない噂を黒光りさせる夏の勇者である。なぜ子どもたちに大人気なのかと言えば、あんま飛ばないし持ちやすいからである。
「バカヤロウが!デパートに売っちまうぞ!」
この深夜特訓には、正一のいやなところが全部出ていた。非力な正一がカブトムシを選んだのは、東京もんへの対抗心ばかりでなく、カブトムシならホームランできるかもと考えたからだ。正一は生涯通じてまだ一本もホームランを打ったことがなかった。少年時代それらしいものを二回、二塁打にされた経験に裏打ちされた劣等感が今、心模様という一枚写真の真ん中でダブルピース、幅をきかせている。
行き場のない怒りが限界パワーを延ばし延ばしにすると信じながら、正一はカブトムシを何匹も打った。でもダメだった。何回やってもカブトムシは、うちっかわの羽をはみ出しっぱなしにして内野にへたりこむ。飛びすらしないのもいて、死んでんのかなって思う。いやな気分だ。
「もう、もういいよ!国産はダメだ!」
正一はカブトムシをカゴに残したままバッターボックスで仰向けに寝っ転がった。目に飛び込んでくるのはド田舎原産の満天の星空である。しみじみ言った。
「しかし星の数ほど女はいるって言うけど、モテないなあ、俺」
正一の野球がうまくならないのはのべつまくなしいろんなことを考えているからだ。努力する才能はあるが、色々なことに気がつきすぎる。これは日頃、監督にも散々言われるところである。
「俺、モテモテになりたいなあ」
何かに一途になれないで思案がふらふらするのは誰だって身に覚えがある。それにしても度合いというものがある。比較的フラフラせず一事に打ち込む人は一事を為し、フラフラする人はかと言って諸事色々に手を染めるわけでもなく実際ただぼんやり過ごしている。それは他人から見てもやはりフラフラしたものと映る。ところがまたその他人だってフラフラしているのが大半なのだから頗るたちが悪い。みな人を見て自分を改めない代わりに、人を見て人を評するのである。世に心のフラフラしている人が多いと感じられるのはみな自らを棚に上げて批評家然とするからで、それが自分の証明するとおり自然なことだと思わない。そのくせ日本全国から集まった移り気が並んだその棚の上を覗いて溜め息をつく。これでは、世間を住処とすれば居場所がなくなるのはきまりきった話である。だが、正一は存外呑気にフラフラ考えを右往左往させて省みなかった。正一が意気軒昂に頑張るのはむしろ人並みになることであり、方言の矯正など、目的は人並みの段から階下を見下ろすことであった。
何気なく寝返りをうった時、内野にいたカブトムシたちが何匹か右中間に飛んでいくのを正一は見た。
がばと体を起こして目を凝らす。すると、右中間スタンドの芝生に誰かいる。今まで全然気づかなかったのを正一は不思議に思った。
正一はバットに体を預けて立ち上がり、走り出した。その姿はかなり一生懸命走っているのに遅く、今日の占い血液型選手権で絶対負けるパターンである。なるほど正一は野球部で補欠だが、監督がレギュラーを叱るときによく引き合いに出すほどの頑張り屋でもある。それもまた人並みへ這い上がらんとする彼一流の根性である。しかし何度も言うように、彼の努力は分散する。
夜の暗さに、正一の目にはその人影が誰なのかちっとも判然としない。錯覚かとも思えてくるが走るのをやめない。ふとカブトムシに追い抜かされた。そして間を空けずまた一匹、無理して飛んでますという重たい羽音が耳をかすめる。確かにカブトムシはあの人影に吸い寄せられているようだ。
外野フェンスに手をかけると、急に視界がはっきりしたような気がした。見上げると、傾斜のある芝生に、姉が腰を下ろしていた。
そしてそこに、続々とカブトムシが集まっている。その理由はすぐにわかった。手元にくずれかけ、黒ずんだバナナがある。そこめがけて飛んできたカブトムシが、目測を誤って姉の胸に激突して止まった。姉は平気な顔をしていた。顔の至る所にもカブトムシがひっついている。
「姉ちゃん、こんな時間に何してんの」
「正一、私はただお父さんに言われてあなたの様子を見に来ただけよ」
冷たく言う姉に、秘密特訓を見られたこともあって正一はムッとした。
「じゃあそのバナナ、なんだよ。余計なことしないでくれよ。巨人の星みたいにただ見守ってくれりゃいんだ。俺は俺だけの力で特訓をやり遂げたいんだ、俺は……腐ったバナナじゃねえ!」
「バナナはただの夜食よ」
姉はそうして腐りかけのバナナにかぶりついた。一口、そして続けざまにもう二口食べて平然としている。正一はあんな腐りかけっていうか腐ったバナナをためらいなしかと面食らった。人間の許容範囲どころか、サルのもギリギリ超えている。
しかし、姉の頼もしいような顔に見覚えがあった。小学生のころに二人で行った野球観戦の記憶が蘇る。福島で巨人が試合するからと頼み込んだが両親とも仕事で都合がつかなかった。それを、中学生だった姉がチケット二枚首にぶら下げて、連れて行ってくれた。三回裏、グラッデンが退場した。
「あの時と一緒だ。いきなり売店であったけえそばを買った時と。どういうことかはわからないけど、一緒」
正一は当時、迷う素振りも見せずに野球観戦のお供に売店でカップそばを買った姉を、とんだあばずれだと思いながらも畏怖した。すっかりフライドチキン・アンド・ポテトかなんかを買うと思っていた正一は一瞬にして正気を失い、激しく動転し、自分の番になって、変な辛いポテトを買ってしまった。
「まったく、俺はいつまでも、姉ちゃんにはかなわねえや」
ちょっと笑ったような正一に反して、姉の目は冷ややかであった。
「正一、私たちは呪われているわ」
にちゃっ、と口の中でバナナが糸を引く湿った音が正一のところまで聞こえた。そして正一はやっと気づいた。今までカブトムシがとまっていると思っていた姉の顔は、カブトムシじゃない、血だらけなのだ。あっ、と声を上げそうになった時、サイレンが鳴った。暗雲広がる空から、鋭い反響がけたたましく降ってきた。すると、にぶい音をたてて姉の周囲を飛び交うカブトムシが、その目線を、絶えず太い黒い線で隠し、もう二度と目を見ることは叶わなかった。
「標準語を学んだときから、呪われていたのよ」
「う、うわー!犯罪者じゃー!」
正一は引きつった形相でホームに向き直り、全力疾走した。そしてそれをやったら助かると思っているように、ホームベースにヘッドスライディングしてそのまま動かなかった。
翌朝、姉は運転過失致死で捕まり、正一は心臓麻痺で死んだ。地面には「喜多方ラーメン」と書こうとした跡が残っていたという。