朝マック社会への進出

 朝もやの八時、世にもなめらかなMのマークを横目に会社へ向かう。生まれてこの方、朝マックの幸福のシャワーを浴びずに生きてきた俺が朝マックすることなんてことがあるのだろうか。飯を食わずに20分早く家を出てパンなのか肉なのかわからないものとコーヒーが無料という生活習慣が俺の心にジャストフィットなんだから、ということは果たしてありえるのか単なるアメリカ発の夢物語なのか。
「半魚人の俺が……」
「よう、何をブツブツ言ってるんだい。おはよう半魚人くん」
 半魚人は驚いて鱗を逆立てた。振り向けば誰もいないが、声は下から聞こえたので足下に見つけることができた。
「小リスくん。今日は君、ずいぶん早いんだね」
 会社の同期である小リスくんの頬は朝っぱらからぱんぱんに膨らんでいた。小リスはお昼の弁当を箱のまま頬の袋に詰め込んできて肌身離さず仕事するエコ活動でいつも部長に褒められて「いや~」とか言ってるし、佐野元春を聴いている。
「ああ、ちょっくら朝マックしていくんだよ。ソーセージエッグマフィンも偉くなったもんだね。どうだい君も一緒に」
「俺は朝食を食べてきたからなぁ」
「そうか。じゃあ、僕はちゃちゃっと朝マック食べてくから先に行っててくれよ。君はいつも早く出勤して上司を出迎えて頭が下がるな。僕には、朝マック小リスにはできないことだ。とてもとても」
 その瞬間、朝マック小リスというフレーズが半魚人の濡れた脳みそにマグネットの力で貼りついた。不況のバックをとって今や飛ぶ鳥の勢いのマクドが三度の飯を制圧する日がそこまで迫っているのだろうか。全ての食文化がバンズに挟まれる。半魚人の頭の中は、人の部分では五人の不良が単車の周りをグルグル回ってコールタールになり、魚の部分では熾烈なナワバリ争いがぎらぎらに展開。
「半魚人くん? 半魚人くん!?」
「え? あ、ああ、何?」
「こんなところでボッと立ち止まっちゃいけないよ。水溜りができるじゃないか」
 マクドナルドの店舗前は、半魚人の滴りでプールサイドのようになってしまった。
「なあ、小リスくん」
 半魚人の目つきに尋常でないほど力がこもっていたので、小リスは題して「なんでも話してくれ」の顔になりつつ弁当の傾きを舌で直した。
「なんだい」
「俺も朝マックのお相伴に預かっていいかな」
 小リスはおなかの毛を三度なでた。
「しゃちほこばって何言っているんだよ。当たり前じゃないか。さあ、行こう。こう言って入るんだ。いただきます」
 小リスはそう言いながら自動ドアに踏み出したが反応しなかった。小リスは何度か小さくジャンプした。しっぽをぱたぱたさせた。
 半魚人は、小リスもまた初めてのマクドナルドであることを悟ったが黙っていた。動物の社会進出は衛生面からいって実現が難しく、この前も部長に見慣れない菌をうつして大目玉を食らった。
「いただきます」
 半魚人がボタンを押して自動ドアを開け、店内に入ると、近未来的なテーブルに椅子の並び、目立たないトイレ、セルフサービス、紙ナプキンの束感、おまけの売り切れ続出度数、右にずれてお待ちくださ具合が憧れの姿焼きとしていっぺんに全身を熱くさせた。いったいこいつらにはいくつのノウハウがあるんだ。
 一歩踏み出した瞬間、奧でブザーがピロリピロリ鳴った。小リスはびっくりしてキョロキョロと左右を見上げ、半魚人は水滴が垂れないようガニ股になり、ビジネスバッグをかけ直した。
「お客様」
 いつの間にか寄ってきた店員が、新型インフルエンザを理由にして丁重に追い出しにかかった。その人間の言葉は、小リスにはまったく、半魚人には半分しか理解できないものだったが、二匹は涼しげな目元で従った。
「しょせんは勝ってうれしい、負けてくやしい、Mで待ってるケチ野郎さ」
 会社まで歩きながら小リスはつぶやいた。着く頃には弁当を食べきってしまい、昼飯がなくなった。お昼休みにポストイットをかじっているのを半魚人は見てしまった。