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京浜東北線がボクシングトレーニングに最適な三つ四つの理由

 プシュー、ガガッ、ガ、プシュー、ガッ。
「どこのリーマンだよコンチクショウが!」
 京浜東北線大船行きのドアがなかなか閉まらないのを、先輩は人のせいにしている。実際は、先輩が最高尾のドアのところで、パンチを出し続けているからプシュープシューいっているのだ。
 二分前にさかのぼろう。JRの車掌は、柱に取り付けられた車掌しか知らない秘密のボタンを押してホームに流れる軽やかな音楽を消すと、車掌室に乗り込み、窓からキツネみたいな顔を出した。「よし今」そこを見計らって、先輩はドアが閉まる予定の空間に向かってパンチを出し始めた。あまりに速くて見えないパンチを出す練習だった。シッ、シッという音が口元から聞こえているが、偶然ではない、狙って出している。
 目の前で手が出たり入ったり妙な音が出たりしているので、車掌はそのたびにドアを開け閉めしていた。
「どこのリーマンでしょうね、先輩!」
 三ヶ月前にさかのぼろう。僕がボクシングジムに入った翌日、一番なれなれしく話しかけてきた人が先輩だった。先輩は口だけでなく、ちゃんと日本ランキング3位であり、人望がなく、ボクシングの腕は並大抵ではない。はじめの一歩の誰かに例えることも夢ではないのに人望がないのはすごく残念だ。
 プシュー、ガ、プシュー、ガ、プシュプシュー。
 それでも、日本ランカーのリアルボクサーパンチでも、電車のことばっかり考えておかげさま25周年を迎えた若手JR職員の目すら欺けない。先輩はそれを認めたくないようだった。
「お前注意してきてよホントに!」
 先輩がかなりあせっているのは、普段と違う、してきてよ口調でわかった。
「あと飲み物買ってきてよ!」
 先輩は三分がんばって一分休む、三分がんばって一分休む、のバイオリズムを年がら年中しみつけている。やがてパンチを出すのを止めた瞬間、プシューとドアが閉まった。車掌がうらめしそうにガラス窓の向こうからこっちを見ているが、先輩は路線図を見上げて気づかない振りをした。
「ケンジ、路線図を見ろ。だいたい駅と駅の間は時間にして三分から四分、つまり京浜東北線はボクシングの練習に最も適した乗り物といえるんだ。おい、路線図を見ろ!」
 車掌はまだこっちを見ていたので、僕はそっちを見てよそ見していたのだ。そしたら怒られた。だいたい路線図に駅間の時間は書いてない。
「さらに京浜東北線がいいのが、この揺れ、スピード、そして山手線との攻防だ。バランス感覚、スピード、アイツだけには絶対負けないんだという気持ちを養うことのできる理想的トレーニング環境といえる。埼玉、東京、神奈川に住んでいれば利用できるのも便利すぎる」
 電車のスピードが人間のスピードにすり替わっているなど言っていることはとにかく、先輩がさすがなのは、あれだけパンチを出し続けたのにまったく息が切れていないところだ。
京浜東北線の特性に気付きトレーニングをしているのは、正直、俺だけだと思う。あと動体視力も鍛えられるよ」
 先輩は誇らしげに言い、窓の外を見ていて動体視力のことも思い出した。
 その時、背後から、不敵な笑い声が聞こえた。
「フフフ……俺だけだと思う、か。笑わせるな!」
 先輩と僕は慌てて振り向いた。そこには、現役日本チャンピオン、ロケット六角がバランスボールに覆いかぶさるように乗っかっており、こっちを見ていた。
「俺がデビュー当時から京浜東北線でトレーニングしていたことを知らないわけじゃあるまい。お前は俺の自伝を読んだはずだ。書いてあったはずだぞ! 京浜東北線でトレーニングしてるって書いてあったはずだ! よくもぬけぬけと、俺だけが京浜東北線でオリジナルトレーニングしていると言えたもんだな! パクり野郎が!」
 八年前にさかのぼると、チャンピオンは京浜東北線で日々トレーニングしていたらしい。なんということだ。
「先輩!」
 先輩を見ると、顔色一つ変えずにロケット六角を見つめている。
「先輩、パクったんですか!」
 先輩は、首をわずかに振り、小さい声で「んーん」と言った。
「先輩!」
 これはダメだ。パクっている。先輩は人の練習をパクっている。元祖草だんごと言い張る味が、僕の口いっぱいに広がった。
「しかしロケット六角、それはともかく、一つ聞きたいことがある。そのサイズのバランスボールでは、電車に入らないはずだ。俺はやったことあるからわかる。俺だって、バランスの取れない京浜東北線でバランスボールをやったら二倍速で成長できるということは考えた。でも絶対ドアに入らないんだ。貴様、どうやってそれを……まさか!」
「そのまさかだ! 無理やりねじこんでやったんだ!」
「俺が思ってたのと違うけど何ィ! どれぐらい無理したか教えろ! 俺も無理した! けどダメだった!」
「もう少しで絶対に破裂するところまで無理した」
 ロケット六角はこともなげに言った。
「しかしお前の課題はメンタル面、そんな破裂寸前なんて無理はできるはずがない。まさかメンタルの課題を克服したというのか」
「いや俺の課題は今もメンタル。ふとしたことで泣きそうになる。だからこれをねじ込むのは、俺一人では無理だった。しかしお前は一つ忘れている」
「何ィ、嘘だと言ってくれ!」
京浜東北線が公共の交通機関だということをな!」
「夢であってくれ!」
「つまりこういうことだ! 世の中には、親切な人がいる!」
「……」
「先輩、何か言ってください!」
「コンチクショウ」
「手伝ってくれたリーマンがかなり無理をするタイプのリーマンだったのがお前の運の尽きだ! 俺が、止めろ弁償してもらうぞと言うのに、聞かずにグイグイ押し込んでくれた。こういう人がiPhoneつくるんだな、と思った。さあ無駄話はここまで、練習練習! さっそくバランス感覚を鍛えさせていただくぜ!」
 ロケット六角はバランスボールに座り、先輩は京浜東北線の車内でダウンした。僕は立ち尽くしたまま、バランスを取るチャンピオンがクネクネ動きながら時折「おっ、おっ」と呟くのを、意外と興味津々で見ることができた。「あぶねっ」