労災

 入社3ヶ月の僕にはどうすることもできなかった。僕の無力さはと言えば、カッターの刃ひとつ満足に折ることができず、夜更けにワニワニパニックでストレス発散をしているところをテレビ局に取材され、課長に怒られた。正確には、社長に課長越しに怒られた。
 今、先輩は、運動不足の先輩入社8年目は、みんなが帰ったオフィスで、泣きながらアキレス腱の運動をしていた。僕達の上だけ、蛍光灯が光っている。体全体が上下に大きく動いて、踵が床についたり離れたりを繰り返している。
「先輩、やめてください。それ以上アキレス腱をグングンさせたら、切れちゃう。運動不足だから切れてしまいます」
「黙ってろ高橋。切ってやる。労災がおりるんだ!」
「おりません先輩。労災絶対おりません!」
 先輩はもう限界だった。会社員は大変だ。会社で限界に達してしまったとき、僕達はどこに帰るのだろう。実家に帰れば終わりだというのが、僕が社会に出て感じたことだった。実家に帰ったら終わりだ。ハゲずに部長まで上り詰める人間がゴマンといる世界で、実家に帰ってしまえば、僕の中の大切な何かの中でもかなりポイントだと聞いている部分が、バレバレになってしまうだろう。安い腕時計は箱に入ってすらいないのだ。
 先輩のその部分が丸見えになっているのが勘の悪い僕にさえはっきりとわかった。何か書いてある。汚い字で何か書いてある。
「高橋。アキレス腱を切ると、すごい音がするらしいぜ」
 僕は汚い字を判読しようと試みていた。そうすれば、先輩を説得して仕事に戻すための糸口がつかめるはずだ。そしてそれは、僕自身の救済のためでもあった。この会社で8年働くとはどういうことなのか僕は知りたかった。
「聞いてるか高橋。太い輪ゴムが思いっきり切れるような音がするらしい」
 僕には何が書いてあるのか読むことができなかった。汚すぎる。ただ一つわかったのは、先輩の給料は僕と1万しか変わらないと言うことだ。そして僕は先輩に1万貸していた。
「聞かせてやるよ高橋。待ってろよ! 高橋、俺はどうなってもいいんだ。労災がおりれば!」
「じゃあ先輩、僕、飲み物買ってきましょうか」
「頼む!」
 僕はそれ以上何も言わず、飲み物も買いに行かず、先輩が上下に揺れるのを眺めていた。仕事はこれっぽっちも進んでいない。エクセルの平均のやり方が一個もわからないからだ。僕は23歳だし、もう大人のはず。大人がコンビを組んだら何でもできると思っていた。キャプテン翼を読んだ時から、むしろ大人でなくとも、ひとまずコンビを組めば何かしらいいことが起こると思っていた。二人だけの必殺シュートが生まれて、漫才がWボケになるんじゃなかったのか。僕はもういやだ。しかも先輩のアキレス腱は全然切れなかった。