自殺志願者が逆立ちする屋上で

 高層ビル16階建て。色付きコンクリートは成功者の輝きを放ち、エレベーターは2つ。管理人が常駐し、宅配ボックスがついている。しかしそんなアッパーなマンションの屋上では今、物騒な話が進行中だ。飛び降り自殺しようとするパッと見50代の男に対し、警察が決死の説得にあたっていた。
「何回言わすんだ。さあ、バカなことはやめてこっちに来なよ」
「いやだ!」
 男はマンションの崖っぷちで逆立ちして、こっちを向いていた。これでは迂闊に手が出せないどころか、学生時代は器械体操をやっていたに違いない。もう30分もこのままだというのだから、相当のガンバリストである。
 男の要求はよくわからなかった。何を言おうと、猫も杓子も、死んでやる、死んでやる、とわめき散らし、逆立ちができない警察官たちは複雑な気分になった。だって、逆立ちができるのに死ぬことなんてないよ。そんなの絶対ないよ。だからよっぽどイヤなことがあったんだろうと思い、自然といつも説得する時よりやさしい口調になっていった。
「どうして死にたいなんて言うの?」「逆立ちはいつからできる?」「たくさん練習したぁ?」
「したよ、練習は!」
 自殺志願者がまともに答えたのはそれだけだった。
 その時、知らない新人が運転するパトカーを飛ばしてデカ長が到着した。屋上に現れるやいなや、
「やっとるか」
 と言い、挨拶もそこそこに自殺志願者へ語りかける。
「自殺志願者くん。私だけに教えてくれ。君のお望みは一体なんだね」
 そのオーラに感じ入るところがあったのか、自殺志願者はちょっと考えて、言った。
「そこの若いの! お前ヘイ・ジュード歌え!」
「え? 俺?」
「そうだ。そんで、ナナナッナーだけ俺に歌わせろ」
「デカ長」若い警察官は視線をチラリと送る。
 デカ長はうなずいた。若いのは大きく息を吸った。


♪ ヘイジュ〜 ドンメイッキバ〜
♪ テイカサ〜ッソ〜ン アンメイキッベータァ〜〜


 デカ長はじめ、全員でゆっくりめの手拍子が始まる。


♪ リ メンバー トゥーレハーアンドヨアスキィン
♪ ゼンユービーギーィン トゥーメイキィベーターベラ ベラ ベラ ベラベラア〜〜〜ッ!


♪ ナ〜 ナ〜ナ〜 ナナナッナ〜〜 ナナナッナ〜〜 ヘーイジュー
♪ ナ〜 ナ〜ナ〜 ナナナッナ〜〜 ナナナッナ〜〜 ヘーイジュー
♪ ナ〜 ナ〜ナ〜 ナナナッナ〜〜 ナナナッナ〜〜 ヘーイジュー
♪ ナ〜 ナ〜ナ〜 ナナナッナ〜〜 ナナナッナ〜〜 ヘーイジュー ジュッジューラジューレジュレジュレジュレ
♪ ナ〜 ナ〜ナ〜 ナナナッナ〜〜 ナナナッナ〜〜 ヘーイジュー ジュウッジュージュゥージュ ジュウゥ〜


「おいちょっと待てよ!」
 逆立ちのまま怒鳴った自殺志願者に、警察は全員、歌と手拍子をやめた。
 歌? 歌。そう、気付かぬうちに歌ってしまっていたのだ。最初から歌っていた若いのを含めて、最後の方は全員ナナナッナーと、腹から声が出ていた。手拍子も頭の上になっていた。しまった。音楽に国境は無いし、ビートルズはやっぱり凄いが、任務を忘れてロケンローするとは何事だ。
「ジュレジュレのとこもなんかお前らいっぱい歌ってたなぁ〜。俺の声全然通ってなかったな〜」
 唇を結び、帽子をとって髪の毛をかきあげる警察官たち。とても面目ない思いだ。
 その時、誰かが機転を利かせた。


♪ ヘーゥ!


「ん?」


♪ ヘールプ!


「あ、ああ。ああ」ちょっと納得のいった顔の自殺志願者さん。


♪ ヘールプ!


「ナナ〜ナナ〜ナ」


 自殺志願者は、ヘイジュードに続いて、またナナナと言ってしまった。
 誰がどう見ても、事態はどんどんまずい方向へ進んでいるようだ。しかし、よく見てみれば、この男はロックというより60年代日本歌謡を駆け抜けてきた世代にお見受けする。ロックで背伸びしてみたものの、本当はもっと別な歌をそのノドは求めているのではないか。これが、勤続30年の大ベテランであるデカ長の、なんということない、単に相手と同年代だからできた推測である。
 デカ長は一歩前に出て、ムードたっぷりに体を揺らしながら歌い始めた。


♪ あ〜なた〜だけぇ〜がぁ〜
  生〜き甲斐なの〜〜
  お願い〜〜お願い〜捨て〜な〜いで〜〜〜


「てなこと言われてその気になって ♪」一番気持ちいいとこを歌ったのは、続けてデカ長であった。


♪ 三日とあけずにキャバレーへ


 ゴキゲンな部分にくると、警官たちは、それぞれ立っていた位置より前に飛び出した。


♪ 金のなる木があるじゃなし


 そして、一緒に歌いだしながら、あっちこっちを向いてぐりぐりツイストを踊り始めた。もう屋上はどんちゃん騒ぎのミュージカルシーンである。それを自殺志願者は逆さで見ている。


♪ 質屋通いは序の口で
♪ 退職金まで前借りし
♪ 貢いだ挙句が


デカ長「ハイそれまでョ ♪」


「ふざけゃがってふざーけゃがってふざーけゃがってコノヤローー!!」


 最後は警察が全員で締めて、自殺志願者は、倒立の姿勢のままゆっくり16階下へ倒れていった。最後に見たのは青い青い空。最後に聞いたのは、スーダラ節の導入部だった。そっちを最初に聞いていれば、救いの一つもあったかも知れない。