『のぼるくんたち』いがらしみきお

 まずみなさん、自分がジジイババアになった時の理想のスタンスを紙に書いて発表してください。僕は、当たり前の話、自分の好きなようにおもしろいように喋って張りのある生活ができていればまあOKかな、と思っています。
 さて、『のぼるくんたち』は全2巻のいがらしみきおのマンガです。主人公 のぼるくんは、老人ホームで暮らす要はボケちゃったジジイです。認知症型のボケですが、もうちょっと複雑でマジカルで、その日によって何歳なのかが違うんです。当日その時間の年齢によって、記憶と思考、それに伴う行動、能力が変化します。3歳の時の能力で暮らしていると思えば、50歳の時は50歳で少林寺拳法が凄く強かったりします。友達は、老人ホームなので全員ジジイです。話は、のぼるくんが一日のうちで全部の記憶を思い出す、すなわち、のぼるくんがどんな人生を送ってきたのかのぼるくんに思い出してもらうという、壮大な目標「人生のグランドスラム」を漠然と感じながら進みます。
 ここでジジイババアについて考えてみます。志村けんのコントを見てわかるとおり、好き勝手なことをさせるのに一番適しているキャラクターはジジイとババアです。そこにみんなのリアリティ−が備わっているからです。今キャラクターと言いましたが、キャラクターというのは概念化した個性とでも言うようなものです、本当ですか。つまり、若い女の子というだけでキャラクターになるわけではないように、ジジイババアというだけでなく何か内面外面の特徴づけがあってキャラクターになるはずですが、僕達はそういう、特定のジジイババアをなかなか記憶から引っ張り出して来れません。ボケたジジイババアが出てくるはずです。こういうふうに、老人と、あと子供は、生きてるだけでキャラクターになってしまう。悲しいやら何なのやら、なかなかおもしろい問題です。でも、それは単に僕たち社会のメインストリームの者たちが、ジジイババアを決め付けて、その決め付けは一応合ってるのですが、そこで思考停止して、あまりいじってこなかったからなのではないでしょうか。僕達はジジイババアに脳を割くのを怠り、一本化したのです。ジジイババアに個性はないのか! これは、前回に薦めた『働くおっさん劇場』とも関わってきます。おっさんおばさんじいさんばあさんにも個性はあるはずだ、多様なキャラクターがあるはずだ。人間だもの。これが、「ボケること」「記憶」と並んで『のぼるくんたち』のテーマだと僕は思っています。いがらしみきおには、そういう個人として没キャラクター化されて十把一からげにキャラクター化された種類の人間を救い上げようと集中的に描いている時期があって、そのジジイババアサイドがこの作品です。
 「見ろや ジジババがあんなに喜んどるわ」という感動的なシーンがマンガにもありますが、冒頭の僕の目標を叶えるには、やっぱり友達が必要です。いろんな、できればおもしろい個性あふれるジジイババアと一緒に行動したい。その個性はボケたからでもいいし、なんでもいいし、そういう人がいて、最終的にツッコんだり、何か反応して、最後に客観視してくれる人がいればいいと思う。このマンガの先生のように、そのポジションをやってもいいと思う。ボケる方に回った場合は、もっとなんでもいいと思う。もちろん、現実はそうはいかないものですが、そういう希望を持って、光に透かして老後を見ていきたいです。
 とにかく真面目めなことを書きましたが、一番大事なのは、全編にわたってギャグがおもしろいということです。ジジイババアが、画太郎的な意味でなくおもしろいことを言うんですやるんです。別にギャグでなくてもいいんですが、全編に渡る何かがないとのめりこめないという僕は落ち着きの無い修行の身、これがなかったら僕の中で特別なマンガになっていないと思います。そのギャグですが、ギャグギャグ言ってもちんぷんかんだと思うのでやんわりと説明します。よく聞いてください。このマンガのギャグは、多分これを読んでいる人があまりマンガでは読んだことのなかったギャグだと思います。というのは、現実に再現可能なギャグだということです。おもしろいジジイを集めて、そのまま忠実に映画化したらいいのにな、と思います。うまくやれたらものすごいカルト映画になるでしょう。そしてそのギャグ、マクロな視点からの説明なんですが、なされたギャグが、それが狙ったボケなのか、狙っていない「ボケ」なのか、その境界線が「記憶」というこのマンガの一大テーマにも濃密に関わってきて、ラストはとにかく凄い、まさに完全制覇の満塁ホームランということになるでしょう。そして明日はまたボケているでしょう。