スペ夫

 マタドールのスペ夫は五時寝からの七時起きという不可能を可能にし、闘牛場入りした。
「スペ夫さん入られまーす!」
 どこの世界も下っ端は声を出すようになっている。闘牛界も例外ではない。そんな下っ端の肩を叩いてやるスペ夫は、自分でも社交性がある方だと思っている。
 五分後、スペ夫は赤い布を家に忘れて偉い人に囲まれていた。どうして忘れちゃうんだと聞かれて、自分のミスを絶対に認めようとしない若いところのあるスペ夫は「すいません」の一言が言えなかった。そればかりか、自分でも知らない内に「わざと忘れたんだ」と答えていた。そして花瓶に挿してあったバラの花を抜き取り、口にくわえると、顔の横で二度手を叩き、こう付け加えた。
「赤い布無しで闘う」
 それまで、素直じゃないスペ夫に、スペ夫ほんとにいい加減にしろよと噴火寸前だった偉い人たちの顔が、それはアリだな、という表情に変わり、金のにおいがしてきた。
「でも、やっぱ一応、何か代わりのものを使った方がいいよ」
「子供が遠足に持っていくケロッピのシートがあるから使った方がいいよ」
 偉い人たちはそれでも、口々にスペ夫を心配した。それを、ずっと黙っていた偉い人の一人が机に手を叩きつけて勢いよく立ち上がった。
「てめえら、スペ夫さんをなめてんのか! スペ夫さんにはそんなもんいらねえんだよ! ですよね、スペ夫さん」
 スペ夫は、バラの花を口から抜き取ると、四十ほど年の離れているそいつの顔をバラで指し、こう告げた。
「ビンゴ。君、わかってるね」
 しかし、罠だった。偉い人たちは、なんにでも形から入ることで知られているスペ夫がケロッピを断るのを承知の上で一芝居うったのだが、スペ夫は気づかなかった。若い頃から牛と闘ってばかりいたスペ夫は、大人の腹黒さをなめていた。この期に及んで楽太郎と友達になれるような気がしていた。これで、もしスペ夫が死んでも、偉い人達は、僕たちは止めろって言ったんですけどスペ夫さんが……あの人は伝説や、と言うに決まってる。どちらにしろ、後には手ぶらで牛と闘ったという伝説だけが残るという寸法だ。スペ夫が、スペ夫が危ない。
 というわけで、ひょんなことからというかほとんど自分のせいで、丸腰で牛と闘うことを余儀なくされたスペ夫だったが、不思議と心は落ち着いていた。なぜだろう。昨日寝ていないからだろうか。
 闘牛場に出る五分前、スペ夫はオロナミンCを飲んで気合を入れていた。すると、知らない小汚い少年が声をかけてきた。
「スペ夫さん、やっぱりどう考えても無茶だ。布無しで、無茶だ」
「確かに、布を使わずに牛と闘うのは、立ち姿も決まらないし、一人牛追い祭りになる危険性も大。そうなったら、さあ祭りになったら、観光客に写真を撮られてしまうだろう。その瞬間、俺のマタドール人生は終わりだ。でも俺はやるんだ」
「どうしてそこまでして、スペ夫さん」
「わからない。しかも二時間しか寝てないもんだから、体調は最悪だ」
「どうして、どうしてちゃんと寝ないんだ!」
 少年は四つんばいになって、くやし涙を流した。
 その答えはスペ夫もずっと知りたかった。俺は、スペ夫は、なぜいつまでもダラダラ起きているのか。スペ夫は、その答えが、闘牛場の風に吹かれているような気がしているとさも思っているような顔をしていた。肌が荒れていた。
「大丈夫だ。俺を誰だと思ってるんだ」
「スペ夫さんでしょ」
「そうだ。俺は誰だ。もう一度」
「スペ夫」
「もっと。呼び捨てにせずに。俺は誰だ」
「スペ夫さんです」
「そうだ」
「スペ夫さんです!」
 スペ夫は満足そうにうなずき、オロナミンのビンを少年に手渡すと、入場口の方へモデル歩きで歩いていった。
「みなさんお待たせいたしました。スペ夫の入場です」
 アナウンスが闘牛場に響き渡った。観客はいつものテンションでワーワー、と言った。まだ、スペ夫が布を持たないことが伝えられていないのだ。
「やっぱりダメだ! 観光客に激写されちまう。スペ夫さん!」
 少年の叫び声はスペ夫に届かず、スペ夫はとうとうフィールドにその身をさらした。もう後戻りは出来ない。
「スペ夫〜!」「忘れてるぞ〜、布忘れてるぞ〜!」「あわてんぼさんなのか〜!」「大急ぎで取りに行け〜!」
 野次が飛び交ううちに、ここで闘牛のルールをおさらいしておこう。闘牛とは、牛を布で興奮させ、突進させ、疲れさせ、すれ違うと見せかけて剣をぶっ刺し最後殺すという過酷な競技である。つまり、赤い布がなければ突進してくる牛をよけることができない。今回、スペ夫は剣を使ってもよいとは言え、それ以外はマス大山と同じ条件で牛と向かい合わなければならないのだ。これは、『空手バカ一代』を読んでいないスペイン人にはまったくもって未知の領域である。
 その間に、スペ夫の挑戦に関する説明が場内放送されると、さっきまで野次っていた人たちは、もう既に、スペ夫こそ本当の男だ状態。よーく見ておけ、であった。
「牛の登場です」
 アナウンスを食い気味に牛が飛び出してくると、場内に緊張が走った。こんな祝日に、別に何があったというわけでもないだろうに、エサだってもらっていると思うのに、もう怒っている。スペ夫ならやれるという雰囲気は、つけ麺が出されてからスープが冷めるスピードで吹き飛んでいた。
「スペ夫〜、逃げろ〜!」
 また野次が飛び、その声はどんどん増えていった。牛がウロウロしている今ならまだ逃げられる。すいません、で済む。頼む、ウロウロしているうちに心をこめて謝ってくれ。
 しかし、スペ夫は闘うつもりだった。剣を沢山持って、ウロウロしている牛を刺激しないように、ゆっくりと中央に歩いていく。そして、ちょうど中央まで来ると、そこにまとめて剣を突き刺した。スペ夫は、フィールド中央にいっぱい剣を刺しておき、必要に応じて取りに行くという作戦を選択したらしかった。これはパッと見「七人の侍」のパクりに思えたが、映画と言えばホームアローン、あとゴーストバスターズのスペ夫にとっては、ここぞで飛び出したオリジナル・アイディアであり、本能的な行動であった。むしろスペ夫の頭には、裁縫箱の中の膨れた布の塊が思い浮かんでいた。
「ナイス作戦スペ夫!」
 覚悟を決めた観客の応援が再び響き渡った。喩えるならば、冷めたつけ麺のスープに熱した石を投入したのである。