社会契約説

 気づくと教師になっていた俺は、どうやらジャージを学校内で着こなすタイプの教師のようだった。俺が今いる部屋の外のプレートには、体育教官室と書かれていた。
「お前らさ、全然反省の態度が見られないんだよ」
 俺はちょうど持っていた竹刀を、床にたたきつけた。俺の前に立っているしょぼくれた三人は、揃いもそろってビクッとなった。一番隅っこのトマス・ホッブズを俺は見た。
ホッブズ、お前、授業中に何書いてたんだよ。俺様の保健の授業中によ」
「……『リヴァイアサン』という本を書いていました」
 ホッブズは蚊の鳴くような声で言った。
「聞こえねーよ!」
「僕は、『リヴァイアサン』という本を書いていました」
「わけのわからないことを言うな。なんだ、何かのモンスターが出てくる話か。ポケモンの話を書いていたのか」
「違います。国家を巨大な怪物――リヴァイアサン――にたとえ、社会契約に国家の起源を求めつつも、国家主権への絶対服従を説く話です」
 俺はホッブズがなんだかわけのわからないしちめんどくさいことを真面目ヅラして語るので、ポケモンの話じゃなかったこともあって、無性に腹が立った。だから竹刀で、ホッブズの、気をつけしている手の甲のところを打ち付けてやった。ホッブズはお喋りをやめなかった。
「国家・社会が成立する以前に想定される人間の状態――自然状態――は、自己保存欲による、『万人の万人に対する闘争』状態です。人間は、自己の生命身体を保全するための権利――自然権――を生まれながらに持っていますが、その自然権を唯一の人間または唯一の合議体に委譲する契約を相互に結び、これによって主権をもった国家が設立されることで、自然状態を終わらせることができるのです。自己保存をまっとうするために、契約が結ばれるべきなんです。そして、契約が結ばれれば、人民は抵抗をするべきではありません」
「だからわけのわからないことを言うな!」
 俺はホッブズの言っていることが全然わからないので、今度はもう腹が立って腹が立って、竹刀で思い切りホッブズの腹を突いた。ホッブズはうずくまって立ち上がれなくなった。
「僕も、ホッブズ君と同じことについて考えていました」
 ホッブズの有様を見てもなお、隣のジョン・ロックが気丈に言った。
「なんだと」
 俺はロックをにらみつける。
「でも、僕の意見はホッブズ君と少し違います。僕は、自然状態は、平和な状態であると考えます」
「うるせえ!」
 俺は叫び、ロックの隣に居たルソーの肩のあたりを竹刀でぶっ叩いた。まだ自分の番じゃないと思って、片方の膝を折って、もう一方の足をつっぱらかして、なめた体勢で立っていたからだ。
「うう」
ルソーがうめいて、ロックは続けた。
「自然状態は、平和な状態ですが、潜在的にはいつ闘争状態に転落してもおかしくない、不安定な状態です。この不安定な状態から脱却するために、契約によって共同社会を形成し、そこに統治機関を設立して権力を信託するべきなんです。主な目的は、財産権の確保です。それから僕は、ホッブズ君と違って、人民には、信託を取り消し、政府を交代させる権利――抵抗権・革命権――が留保されると考えます。そういうことを基にした意見を、先生の保健の授業中、『市民政府二論』という本にまとめようと書いていました」
「なるほどな。抵抗権な」
 俺は何せちんぷんかんぷんだったが、あれもこれも全部わかっていないと思われると恥かしいし、こいつらになめられてそしたら絶対むかつくので、そう言った。うずくまっていたホッブズが、それに反応して俺の方をチラッと見上げたので、竹刀を顔の前で振ってやった。ホッブズはまた俯いた。腰抜けめ。
「ルソーもか」
 俺は竹刀を自分の肩でぽんぽんとバウンドさせながら、渋い声を出した。ルソーはぶるぶる震えていた。俺はいい気分になった。
「はい。俺は二人の考えを社会契――」
「先生の前で俺とはなんだ!」
 俺は竹刀を振りかぶって、頭に一発ぶちかますと見せて、とっさに頭をかばったルソーの防御をかわし、下へ下への軌道でその太腿の外側を思い切りひっぱたいた。
「うう……」
 ルソーはそれでも、ほとんど片足で立っていた。なかなか根性のある奴だ。よし、気に入った、話す時間をくれてやろう。
「話してみろ。先生、怒らないから」
 ルソーは今怒って叩いたじゃないかと非難するような目で俺を見たが、俺は多めに見てやることにした。いや、やっぱむかつく。もう一度、同じところをひっぱたいた。
「早く話さないから、先生むかついちゃっただろ。早く話せ。社会ケイがどうしたって」
「社会契約です。僕は、今二人が話したような考えの大筋、バラバラの人間が共同体と契約を結ぶというのを、社会契約という語でまとめました。先生の保健の授業中に、『社会契約説』という題名でそのことを書いていました。ただ、僕の考えによれば、自然状態では、人間は真に自由でしたし、自然権も調和して保たれていました。しかし、悪い人間が他人の自然権を侵害することで、不平等と支配と悪徳のはびこる社会となりました。文明社会は汚いです。他人が奪い取りうる世界というのはやはり脆弱ですから、そのために各人は自身のもつ権利とともに自分自身をも完全に委譲する契約を、共同体と結ぶべきだという考えに至りました。それによって成立した共同体の一般意思の表現形態である法に従うことで完全な自由を獲得することができます。社会契約の目的は、人間性の回復なのです」
「一番わけのわからないことを言いやがって! フランス人め! 何がジャン=ジャック・ルソーだ! かっこつけるのもいい加減にしろ!」
 俺はいよいよ、これまでずっと我慢していた面の部分にぶちかましてやろうと立ち上がり、大上段に竹刀を構えた。その時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「ルソー先輩に何をするんだ!」
 1年2組の中江兆民が、『民約約解』という本を今にも俺に投げつけようとしながら入ってきた。それに驚いていると、三人もいつの間にか、それぞれ『リヴァイアサン』『市民政府二論』『社会契約論』を俺に向けて振りかぶっていた。なんとなく、全部重そうだし、だから難しそうだった。あんなのが頭に直撃したら、俺の脳みそはパンクしてしまうに違いない。
「……俺はただ、わけわかんないことを言ってる暇があったら、勉強しろと言ってるんだ」
 今度は俺の口から、蚊の鳴くような声が出ていた。ていうか、俺は、こいつらが保健で生理とか妊娠とかそういうことについて授業をしているのに全然食いつかないから、だからなんだか凄くくやしかったんだ。でも、そんなことを言うわけには絶対いかなかった。