カレー小僧キヨハル

「ルーをよく見ろ!」
 今日も師匠の声がキッチンに響いた。俺の名前はカレー小僧、キヨハル。毎日、定職にもつかず、カレー道場でカレーライス師匠の厳しい特訓を受けている。カレー選手権を明日に控え、練習も甘口から中辛へシフトアップしていく。
「48時間煮こんだ、と言え! 審査員にアピールするんだ!」
 師匠は選手権に向けて、色々なことを俺に教えてくれる。2日煮こんだと言うより、48時間煮こんだということで、よっぽど煮こんだんだと思わせる言葉の魔術。インド人には決して操ることのできない言葉のスパイス。
 その時、道場のドアが開いた。入ってきたのは、俺が常々抱きたいと思っている、師匠の娘、ルリコちゃんだった。
「ルリコちゃん、今、選手権にぶつけるカレーができたところなんだ。食べてみてくれよ」
「うん……あ、うまい!」
「だろ。48時間じっくりと煮こんだんだ。二日目の夕方に見たら全部蒸発してたけど、そのあともう一度作って2時間ぐらいさらに煮こんだんだ。鍋がルーのかたまりでコーティングされて、きっと見たら驚くよ」
「凄い! そんなに煮こんだこのカレーなら、絶対優勝ね」
「ああ、見ていてくれ。ルリコちゃん」


 決戦の朝、俺は尻から血を出した。
「どうしたのキヨハルくん。思いつめたような顔して」俺を心配して、俺ができるだけ寒くならないうちに抱きたいと思っているルリコちゃんが声をかけてきた。
「ああ、こんなことを言うのもなんだけど、今日の朝、尻から血が出たんだ……こんなこと初めてでビックリして……頭が真っ白になって……」
 深刻な顔をした俺を見て、ルリコちゃんは天使(エンジェル)の笑顔を見せた。そして、俺の目をじっと見つめてこう言った。
「大丈夫よ。私も第一志望の高校受験の朝、ケツから血が出たの。でもその日……めっちゃ解けた」
「ルリコちゃん……」
「結果は見事、合格。だからきっと大丈夫よ」
 ありがとうルリコちゃん。俺、お尻から血を出してもルリコちゃんが好きだ。何も気にするもんか。俺達は、背も一緒ぐらいだし、消しゴムも大きさは違えど同じメーカーのやつを使っていたし、お似合いのカップルかもしれない。燃えてきたぜ。
 その勢いで、俺は、昨日作ったカレーで初戦の相手のギャツビー久野を撃破した。ギャツビー久野のカレーは、箱の裏に書いてあるとおり40分煮こんだだけの代物。46時間煮こむことで一度完全に蒸発させ、もう一度作り直し2時間煮こみ、さらに昨日一晩ラップをかけてキッチンに置いておいた俺の相手ではなかった。ギャツビー久野が箱の裏を熟読しながら調理をしている間、調理台の上に肘をついて電車で拾った今週のジャンプを読んでいた俺は「ずっとジャンプを読んでいながらにして勝った男」として、一躍優勝候補の一人となっていた。


 第一試合を終え、俺は皿を持って控え室まで戻ってきた。
「おめでとう、キヨハルくん。かっこよかったよ」
「そ、そうかな」ドキンと高鳴る俺の心臓。
「ジャンプ読んでる姿、かっこよかったよ」
「ルリコちゃん、俺と、俺と」
 その時、すぐ横にいた師匠が俺の肩をつかんだ。
「キヨハル、明日の試合に集中するんだ。明日の相手は、さらに手ごわい。今日初めてカレーを作ったギャツビーとは比べ物にならないぞ」
 俺は求婚をあきらめ、明日の試合に集中することにした。この選手権で優勝し、ココイチカレーに就職する。結婚を申し込むのはそれからでも遅くは無い。生活が安定してからでも遅くは無い。
「見ろ、あいつだ。あいつが明日のお前の相手だ」
 師匠が指差した方向を見ると、ターバンを巻いた男が、指先をカレー塗れにして歩いていた。
「あいつの名前はガンジー原田、相当の使い手だ。それもそのはず、インド人だ」
「ガンジー原田……インド人か……」
「そこでだ。私は昨日、徹夜で奴のことを分析してきた。それがこのノートだ。一回戦の結果が出る前から、お前とガンジー原田が勝ちあがることを早い段階、昨日の午前中には予測していた私は、全てのデータをここに書きとめ、必勝パターンを打ち出した。このノートを読めば、絶対に勝てる」
「凄い、そのノートを見れば絶対優勝ね!」ルリコちゃんが飛び上がった。
 俺はノートを受け取り、不敵に笑った。 お前が俺に勝つことは、不可能だ。


 俺はボンカレーのパックを湯に投入した。
 そして、水っぽいカレーを作っているガンジー原田に向かって言った。
「そんな水っぽいカレーで、俺に勝てるかな」
 ガンジー原田は聞こえない振りをしたらしい。それを見て、俺は今度はガンジー原田に言っている振りをして実は審査員に向かって言葉をつむぎ始めた。インド人には決してあやつれない言葉の福神漬けで、俺はお前に勝つ。
「そんな水っぽいカレーが日本人のお口に合うはずねえ。ビシャビシャじゃねえか。カレー、ビシャビシャじゃねえか。お前に勝つには、ボンカレーで十分だ。牛を放し飼いにしている国が、カモシカが都会に降りてきて大ニュースになる日本のカレーを作れるはず無いんだ」
 その言葉が聞こえ、観客はざわついた。俺の気持ちは高揚し、レンジで熱しすぎたカレーのように爆発した。もう止まらない、俺のお口が止まらない。
「俺は料理マンガのペーパーバックをコンビニで立ち読みしまくることで、何の変哲も無いシンプルな料理で逆に勝ってしまう極意を身につけたのさ」
 ガンジー原田はなおも下を向いてカレーを作っていたが、そこで俺はとどめの言葉を、いわば言葉のナンをたたきつけた。
「料理は両手でするんだね。左手も使うんだね」
 審査員の佐々木の顔色が変わったのを、俺は見逃さなかった。しかも、あの佐々木は、審査員に二人いる佐々木の中でも、食に貪欲じゃない方の佐々木。食で冒険しない方の佐々木。ポテトチップスもうすしおしか買ったことが無いという。案の定、ガンジー原田は、日本人がやっているインドカレー屋で土下座してもらってきたナンは「100点」と佐々木に言われて善戦したが、カレーは「いい。……帰って、残ってるそうめん食べちゃいたいし、いい」と一蹴され、一口も食べてもらえないまま俺の前に敗れ去った。


「ルリコちゃん、俺やったよ」
「うん、凄い。このまま優勝だね」
「ああ、間違いないよ」
「キヨハル、そう甘くは無いぞ。三回戦の相手は――」
「うるせえ。俺にかまわないでください。もう俺は独り立ちしたんだ。今日わかったんだ。俺のカレー力は、既に師匠を超えている」
「キヨハル、私を裏切る気か。二回戦勝ったのは私のおかげだぞ」
「カレーを作ったのは俺だ!」
「無茶よキヨハルくん。二回戦湯を沸かしただけじゃない」
「くっ……」
「それにお前、ノートに書いてあることそのままやって……言って……全部、わしじゃん。ねえ、どうなの? なんでそんなこと言えるの? わしのじゃん。ビシャビシャとか、料理マンガとか、全部わしノートに書いとったじゃん。ちょっとオリジナリティ出すかと思ったけど……丸パクリでやって、今こんなこと言われて、わしの気持ち、どう?」
「師匠……」
 俺は気まずさに涙をこぼした。その時、師匠は自分の頭に巻いていた、カレーに染められし黄色いハチマキを外し、俺に手渡した。俺はそのハチマキをぎゅっと握り締めた。
「そうよ。二人とも、仲良くしなきゃダメよ。お父さんは作戦を考える、キヨハルくんは湯を沸かす。二人のコンビネーションは完璧。絶対優勝よ!」
「ああ、三回戦も、勝つ!」
 俺は特にする動作も無かったので、もう一度ハチマキをぎゅっと握り締めた。


 ハチマキを忘れた俺は、玄関まで持ってきたのにもかかわらず忘れたのだった。絶対、靴箱の上だ。
 三回戦の相手は、主婦。メニューのローテンションに困ってカレー(とマーボーナス)を多用し、カレーライスと聞けばバンザイするといわれる小学生の息子すら「たまには煮魚が食べたい」とこぼすほどだという。離婚寸前だという。
 俺は水の入った鍋に火をかけると、主婦をにらみつけた。主婦もまた、まな板の上を見ないままタマネギを切る技で、俺を見返しててきた。上等だよ、主婦め。
 主婦はニヤリと笑い、タマネギを切るスピードをあげた。まな板を打つ音がすさまじい。こんなお母さんイヤだ、と思うほどの速度で、タマネギを切っていく。涙も出やしねえ。その、余りの余りさに、審査員が席を立って、ビストロスマップ感覚で見に来るほどだ。
「すごいすごいすごい」
 審査員は感心して言った。
「うおおおお!」
 うらやましい。俺も負けてはいられない。でかい雄たけびで審査員の目をひきつけ、技を繰り出す。俺のほうもビストロスマップ感覚で見に来てくださいよ、という思いをこめて、指先に力をこめる。
「これが俺のMAXだぁぁぁ!!」
 俺は火力を最大限強火にし、湯を高速で沸かしにかかった。
 しかし、審査員は、主婦の横から一歩も動こうとしないまま、友達がバイトの時給やシフトの話をしている時の俺のような目で、俺を見ていた。まさに、早くこの話終わんないかな、の目。お前も俺も、なんていやな奴だ。俺はシフトに入ったこともないし、よく知らないし、人のバイトの先輩の話は本当にどうでもいい。俺の渾身の一撃が、人のバイトの先輩扱いされたのだ。
 かつて味わったことの無いショックに、俺はガスの火をつけっぱなしのまま気絶した。


 目を覚ますと、俺はベッドの上にいた。周りを見回すと、少し離れたテーブルのところで、ルリコちゃんが具沢山のゼリーを犬のようにむさぼり食っていた。
「ルリコちゃん、結婚しよう。たった一人じゃ心配だけど、二人ならやっていけるさ」
「でも、このままじゃキヨハル君、負け犬だよ。負け犬は負け犬なりに幸せになる権利はあるけど、それって男としてどうなの」
 俺は寝たふりをして、耳に痛い言葉を回避した振りをした。ひやひやしたぜ。しばらくして、うっすら目を開けると、ルリコちゃんはまたゼリーをどんぶり飯がごとくかっこんでいた。
 その時、ドアが勢いよく開いた。
「キヨハル、おめでとう。三回戦突破だ」
 俺とルリコちゃんは同時に振り向いた。
「えっ、どうしてですか」
「お前が沸かした湯が勝敗を分けたんだ」
「でも、湯だけじゃ、主婦の作るカレーには、かないっこありませんよ」
「こいつのおかげだ」
 師匠が掲げて見せたのは、カップヌードルのカレー味の空き容器だった。
「それは、俺が昼飯に食べようと思っていた……」
「ああ、そうだ。お前の、カップラーメンを持参して昼飯代を極力抑えようとする貧乏根性が、まさに怪我の功名、まだあった冷凍カレー、だった。二回連続のボンカレー作戦では、百パーセント負けていただろう。なぜなら、あの主婦は野菜を切っておきながら、高級レストランがどうのこうのという名前のランクの高いレトルトカレーを出してくるクソババアだったからな。しかし確かに、カレーばかり食わされる審査員の身になってみると、ここでヌードルを出せば勝利は確実だったんだ」
「師匠、俺……俺……」
 師匠は俺を抱きすくめた。
「こうなったらあと二回勝てば絶対優勝ね」
 いつの間にかすぐそばにきていたルリコちゃんも、ゼリーを立ち食いしながら言った。
 しかし、だんだん飽きてきた俺は、次の日行かなかった。