日立台博士の化学実験室のホルマリン漬けはその日も良く漬かっていた

 凄い数の薬品が全然整理されていない。そしてヒゲがモジャモジャだ。丸いメガネ小さっ! この三つの条件をクリアーすれば君も化学博士になれるかも知れない。と口で言うだけなら簡単だが、これを実にナチュラルな形で楽々クリアーした男がいる。日立台博士である。研究所は鉄筋コンクリート建築である。
 地下にある化学実験室で、日立台博士は青いのと黄色いのと赤い液体を混ぜて、煙と共に緑色の液体をフラスコの中に作り出していた。厳しい試験を勝ち抜いて、博士の助手になることを許された笠松君は、その液体に釘付けになっていた。
「この液体はなんですか」笠松君は言った。
 博士は答えず、紫色の液体が入ったフラスコを取り出した。
「これをこの緑色のに入れると、また黄色い液体になる」
 博士は紫色の液体を注いだ。緑色の液体は、反応して黄色くなった。博士は反応が終わると同時に、笠松君を見つめた。
「本当だ」
「さらに、これに、この不思議な金属片を入れると、オロナミンCみたいな色になる」
 日立台博士がピンセットでつまんだ金属片をフラスコに落とすと、金属片が溶けながらあわ立ち、オロナミンCみたいな色の液体が残った。
「本当だ、オロナミンCみたいな色になった」
 博士はうなずきながらフラスコを振って、金属片が溶け残っていないか確認した。
「博士、その液体にこの粉末を入れると、どうなるのですか」
 笠松君は、パリパリした紙の上の白い粉を指さした。
「何にも起こらない」
「本当ですか」
「その粉、前入れたけど、何も起こらなかった」
「やってみてくださいよ」
「本当に何も起こらなかったんだ。私はやったことがある」
「お願いします」
 笠松君は頭を下げながらも、迫力のこもった目で博士を見つめた。
 日立台博士はモジャモジャしたヒゲを二度、三度、手でいじった。その動きには、わずかな苛立ちが見て取れた。博士は、紙を手に取ると、少しこぼしながらフラスコの中に落とした。粉はまずオロナミンCみたいな色の液体に浮き、博士がフラスコを左右に振ると溶けた。しかし、何も起こらなかった。博士は丸いメガネの奥から、笠松君をのぞきこんだ。
「本当だ、あの粉末では何も起こらなかった」
 笠松君はがっかりしたように声を潜めた。
「君は、助手にしては我が強すぎる」
 日立台博士は笠松君に背を向けるようにして、光に透かしたフラスコを上目遣いで見ながら言った。
「では、そういう選抜試験をおやりになればよかったのではないですか。かゆみを我慢するだけの試験ではなく」
「かゆみを我慢することが、化学者には一番必要なんだ。狭い実験室では、一瞬のかゆみが命取りになる」
「しかし、お言葉ですが、僕はかゆみを人一倍我慢できますが、化学のことなんか全然知りませんよ」
 博士は手近にあったビーカーを手に取ると、水道の蛇口をひねった。なぜか異常に勢いよく細く出てくる水のシュビドゥバの中にビーカーを突っ込んだ途端、ビーカーの底を叩いた水は勢い良く飛び散らかった。博士はそれでもビーカーに半分ほど水を入れると、その水を別の大きいビーカーに移した。それから、大きいビーカーに入った水を、最初のとは別の小さいビーカーに三分の一ほど移した。そして、窓の外を見た。笠松君はその動きを全て見ていたが、すぐに、興味無さそうに、遠くの棚の上にあるホルマリン漬けに目をやってしまった。
 それから、無言の時間が続いた。
「この、黒い粉末は、さっきのに入れたらどうなりますか」
 笠松君はまたパリパリした紙にのっていた黒い粉末を見つけ、紙ごと手元に引き寄せながら言った。
「爆発する」
「本当ですか」
「それ入れて、爆発したことある」
「その、オロナミンCみたいな色のに入れたら爆発したんですか? それとも、他のに入れて爆発したんですか? 他のに入れて爆発したんだとしたら、それに入れたらどうなるかわからないじゃないですか」
 笠松君は、今は木製のフラスコ立てに立てられたオロナミンCみたいな色の液体を指さした。
「私をなめるな」
 日立台博士はメガネの奥で笠松君をにらんだ。
「オロナミンCに、その黒い粉を入れたら爆発するんだ。前、爆発したことあるんだ。私は博士だ、助手のお前は黙って従っていればいいんだ」
「じゃあ、この黒い粉末はオロナミンCの爆発を引き起こす粉末なんですか」
 その時、日立台博士が凄い勢いで黒い粉末を指さしていた笠松君の手首をつかんだ。それは、何十年もフラスコばかり持って生きてきた手とは思えない、凄い力だった。そして博士は、笠松君の顔に自分の顔を少し近づけると、表情をぴくりとも変えずに言った。
「なんで粉のことを粉末って言うかな?」
 笠松君は強気に見つめ返したが、手首はどんどん強く締め付けられていった。
「すいません」
 しばらくして笠松君は言った。笠松君の手首には博士の手の形がくっきりと残り、死ぬまで消えなかった。