ユニークな死に方と死について

 ユニークな死に方室は大いににぎわっていた。
「私は、風呂を洗うスポンジで殺されました」
「ふふふ」
「殺傷能力あるんだ、あれ」
「そう思ってかなり油断してたから、そのせいかも知れません」
「ていうか凶器としてそれを選択する状況が凄いよね。絶対他にもっとある」
「私は、地平線から見えてたイノシシに激突されて。ずっと見てたんですけど、そのまま激突されて」
「びっくりした?」
「ええ、まさかと思いました」
「ずっと見てたのにね。そんな僕は、ウェットティッシュで鼻をかもうとしたらなんか窒息死しました。えへへ」
「なんでウェットティッシュで?」
「一応ティッシュかなと思って」
「一応ティッシュだけど、ウェットだよ」
「自殺と思われたかも」
「ははは」
「僕の話も聞いてください。僕は、飼っている犬と戯れてる時に、犬が爆発しました。犬は無事だったみたいですけど」
「犬、無事なんだ」
「爆発した方が無事なんだ」
「まいっちゃいますよね」
「ふふ」
「ところで俺は、相撲部屋に見学に行って、体験でつけてみたマワシがきつすぎて死んじゃいました」
「やっぱりあれきついの」
「きついですよ。死ぬほどきついです。下っ端の力士がぎゅうぎゅう調子に乗ってしめるんです」
「でも、普通そんなに死なないでしょ」
「でも、なんか死んじゃいました」
「へへへ」
「僕も似たようなもんです。殿様にもらった鎧が重過ぎて、一歩も動けずに気付いたら立ったまま死んでました」
「あらら」
「本当に重くて。思わず屋内で穏やかに立ち往生しちゃいました」
「でも、一応動けるように作られてるんでしょ」
「あそこまで重いと、疑わしいですよ」
「でも、鎧の中で死ねるだけいいですよ。僕は、マンモスを倒した時の喜びの踊りが激しすぎて、過労死です」
「やっぱりマンモスを倒したら踊るんですか」
「踊ります。でも、僕の喜びの踊りは、いつか死ぬんではないかとみんなに常日頃から不安視されてました」
「原始時代に不安視されるのってなんか凄いね」
「私は、トマト祭りの日に、こっそり路地裏でイチゴを食べてたらあたっちゃいました」
「イチゴ好きなんだ」
「あんまり好きじゃないんですけど、反骨精神で食べちゃいました。なにくそ魂で」
「トマトに対する」
「そういう気持ちってあるよね、特に若い時は」
「35歳でした」
「意外に結構いってた」
「でもいいと思いますよ」
「僕は、家でフルパワーで江頭のマネをしてたら」
「芸人の?」
「そうです」
「フルパワーだとかなり危ないよね」
「ええ、そしたら机の角に頭ぶつけて……」
「……痛かった?」
「ええ……血がいっぱい出て…………それで……」
「……」
「僕……死んじゃって……」
 家でフルパワーで江頭のマネをしてて机の角に頭をぶつけて死んだ人は、震える声でなんとかそこまで言うと、泣きじゃくった。
「死にたくなかったのに……」
 その瞬間、お通夜みたいな雰囲気になり、同時に一面の床が抜け、楽しげに喋っていた何かぼんやりした光にも似た奇妙なものは全部下に落ちていった。
「そうだよ、そうでなくちゃ。当たり前だろ、死んでんだぞ」報告を受けた偉い閻魔様が面倒くさそうにつぶやいた。「ほんと、当たり前だろ。楽しそうに喋りやがって、それじゃ生きてるのと同じじゃねえか。死を、なめんなよ!」
 彼らはおそらくワープの原理みたいなものを使って自分の死んだ場所、時間に戻り、そこで、この世界へ、この死を契機として、世にも不思議な乙なやり方で、もう全部止めて自然と、より自然な、完全なやり方で一体になっていくんだという、気持ちではないんだけど気持ちかも知れないような気持ちを思い出した。そして、どうあれ一体になることに向かいながらも、やっぱ個体としてあったわけだし、だから死んで何年のうちかわからないけど、死にたてのうちは、かつてお前だった一つの部分とか匂いとか痕跡とか空気感とかを、例えば低く飛ぶツバメが切り裂いたりしてかっこいいし、徘徊する老人が踏みつけたりして無常を感じたりするよね。お母さんが死んだお前の部屋をそのままにしておけば、お前の空気感みたいなんはやっぱ実際のトコそこにあるかも知れないよね。どんどん薄まるだろうけどさ。そしてそしてずっとずうっと先の終の遂には、かつて自らが存在したことの証拠を隠滅するように一粒の跡形も残らずさっぱり消えちまうのか、それとも消えちまわないのかどうなのか。消えたところで、それは消えたということなのかどうなのか。そしてそれはそもそもお前、さっき言ってたけど、自然と一体になるとかそういうことなのか。答えは風に吹かれているのか、吹かれているのはお前自身なのか、お前は生きている時から風に吹かれていたんじゃないのか、ということはもともとお前さんは自然と一体になっていたのではないのか、じゃあ、今の君から何か聞きだせるように、死者から、死者がかつて思ったりやったり言ったりしたこと、この世に爪あとを残したことなら、いつかどこかで、何かを聞きだせるのかも知れないのではないか。ラスコーの壁画を描いた人は、その人達は、きっと砂の上にも牛を描いたはずで、そのことを事実としてその人達から聞き出せる可能性は、未来へ残され続けるのではないか。こうした筆者の希望的観測を根元の方から徐々にぐいぐい伸ばしていけば、彼らが束の間、タイムマシーンを使わないでも一堂に会してユニークな死に方を語り合ったことも、まあまあありえるのかなーとか思うね。それか、そんなことなんか全然ありえなくて、やっぱり「死を、なめんなよ!」なのか。やっぱり「死を、なめんなよ!」なのかな。そうなのかなー。