チンパンジーと深く関連している正春の物語

 これは「弟が欲しい、一緒にキャッチボールがしたいんだ」と泣きじゃくり、溢れる涙でヨーグルトを分離させた正春の物語である。
 極度に弟を欲しがっている状態で10歳の誕生日を迎えた正春は、学校から帰ってくると、自分の部屋が閉め切られていることに気付いた。自分の部屋は、いつもなら開けっ放しにしてあるはずだ。
 不思議に思ってゆっくりとドアを開けると、正春は、自分の学習机の上で小さな、ほんの子供のチンパンジーがケツを掻いているところを見た。正春はゆっくりとドアを閉じた。そしてまた開けた。まだケツを掻いている。正春は閉めた、そして開けた。まだ掻いてる!
 正春はドアを開けた。チンパンジーと目が合い、正春は、お兄ちゃんだよ、という笑顔を見せながら、ゆっくりと歩み寄った。チンパンジーは、チンパンジーだよ、という顔で机の上にしゃがんだまま、正春を見ていた。正春は近づくと、腕を広げた。チンパンジーがしなだれかかってきた。
 正春はチンパンジーを抱きかかえながら回転した。
 すると、三回転目でお母さんがドアのところに立っているのが見えた。
「お母さん!」正春は回転を止めた。
「正春、弟を抱いた気分はどう」
「うん!」正春は百点満点の笑顔で答えた。
「ならよかったわ」お母さんもにっこり微笑んだ。
「でも……」正春は笑顔を止めてお母さんを見つめた。「これはチンパンジーだ」
 チンパンジーが鼻をきゅんきゅん鳴らした。
「そうよ」お母さんは嫌いな近所の主婦とすれ違った時の顔になって言った。「チンパンジーよ」
 正春はチンパンジーの顔をじっと見た。チンパンジーはそっぽを向いてもぞもぞと足を動かし、正春の腿に体重をかけた。
「でも正春、チンパンジーの遺伝子は人間にクリソツだということを、お母さんはBSハイビジョンの特集で知ったのよ。九十何パーセントから一緒らしいわよ。お母さん驚いたのなんの。ボビーの格闘技デビュー並みに驚いたのなんの。だから正春、それは九割がた弟よ。あっごめん違う違う。メスだった」
「じゃあ、妹じゃないか!」正春はチンパンジーの股のあたりを見下ろしたが、特に何もせずに前を向くと、叫んだ。
「でも正春、弟を欲しがっていた長男は、妹が生まれても大体、折れる。生まれちゃったら最終的に折れる。折れて、妹の枕元でガラガラを自主的に振る。お母さんは二流芸能人の子育て秘話をテレビで見まくることで、うちは一人っ子にも関わらず、二人目を生むことの難しさと喜びを知り尽くし、その魅力をしゃぶり倒しているのよ」
「でも、僕は弟が欲しかったんだ。弟を頼んだら毛むくじゃらの妹が来るなんて、聞いてないよ! 毛むくじゃらの弟ならまだしも……この手、だって見たことあるもん、図鑑とかで見たことあるよ! 縦に長いんだ。ほら、いやに縦に長いんだ! こんなに木の枝を握るのに適して!」正春はチンパンジーの手を取ってお母さんの方に向けたが、チンパンジーは手を握りこんでいた。
「でも正春……いや、もういいわ。お母さん知りません。あんたみたいな子は――」
 その時、好奇心旺盛なチンパンジーが正春をよじ登り始めた。正春は、あっコラコラだめだめ状態で動くことが出来ずに、今この瞬間、チンパンジーと正春を取り巻く時間(とき)が止まった。チンパンジーは正春の右肩に両足を乗せ、頭におおいかぶさるようにして、しばらくウダウダやっていたが、やがて体勢を崩した。正春の顔一面に、チンパンジーの腹の毛が密着した。「ちょっとちょっと」と正春は言った。チンパンジーはそれから逆さになって、正春の顔から胸を通って、腰のところまで降りてきた。
 チンパンジーのケツ越しにひらけてくる正春の視界の中に、お母さんはもういなかった。正春はチンパンジーを抱きしめた。
「今日からここがお前の部屋だよ」正春は囁いた。「この部屋で、カツオとワカメのように暮らすんだ」
 しかし、後日、オスのチンパンジーが佐川急便の力によって連れられてきて、代金引換の時の感じでメスのチンパンジーと交換された。メスのチンパンジーは佐川急便のお兄さんに手を引かれながら何度も何度も正春を振り返り、正春は泣き叫んだ。それでもお母さんは厳しい顔で頑として聞かず、お父さんはくしゃみばかりしていた。アレルギーなのだ。
 新しいオスのチンパンはもう9歳で、正春よりギリ年下だが、かなり怖かった。遠くから与えてみたそばから、ゴムのボールを握りつぶした。正春は自分の部屋を失い、中学に入学した頃には中途半端にグレていた。